山形第一聖書バプテスト教会(東原教会)
2024-02-27T18:06:49+09:00
ybible63
喜びの礼拝者たちを生み出し、送り出す教会
Excite Blog
ご案内
http://ybible63.exblog.jp/240169695/
2024-02-27T18:06:00+09:00
2024-02-27T18:06:49+09:00
2020-03-08T01:59:37+09:00
ybible63
★歓迎
ようこそ 山形第一聖書バプテスト教会へ
礼拝は、10時30分から行います。
どなでもご自由にご参加ください。
転勤や入学などで山形に来られ、教会を探しておられる方 歓迎いたします。
私たちの教会は、山形大学小白川キャンパスに一番近い教会です。
詳細は、電話:023-634-8853 またはメール:ybible63@hyper.ocn.ne.jp
にお問い合わせください。
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2023クリスマス燭火礼拝のご案内
http://ybible63.exblog.jp/242028129/
2023-12-23T10:19:00+09:00
2023-12-29T19:49:41+09:00
2023-12-23T10:09:32+09:00
ybible63
★イベント
キャンドルに火を灯し、聖歌隊やハンドベルの音色と共に賛美歌を歌いつつ、
厳粛な気持でキリストの降誕をお祝いします。
教会は初めてという方もぜひご参加ください。
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6月11日説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241877916/
2023-07-18T10:54:00+09:00
2023-07-18T10:54:34+09:00
2023-07-18T10:54:34+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
イエス様は取税人であるマタイを弟子として招かれた。当時、ローマ帝国は自国の繁栄のために支配する地域から税金を集めた。ところでユダヤ人たちはメシアによってもたらされる政治的なダビデ王国の復興を待ち望んでいた。その国がローマの支配から自分たちを救うと信じていた。そのためにユダヤ人たちはローマ帝国の繁栄のために税金を集める取税人を忌み嫌い、裏切り者、売国奴と受け止めた。また取税人は自分たちの財産を増やすために、定められいた額以上を人々から奪い取っていた。聖書では取税人は盗人、不正な者、遊女と並んで出て来る。驚くべきことに、イエス様は、ラビたちを絶対に弟子にしなかった、むしろ交わる事さえしなかった取税人を弟子として招かれた。取税人を弟子として招かれたことに、イエス様がもたらす神の国の民がどのような者であるかが現わされている。イエス様がもたらした神の国の民とはどのような民であるのかを見る。この後、イエス様は大勢の罪人、取税人と共に食事をした。それを見て批判したパリサイ人たちに、「医者を必要とするのは、丈夫なものではなく病人です。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言われた。そしてこの出来事の前に、イエス様が中風の人に罪の赦しを与えた記事が記されている。この流れを考えると、イエス様がもたらした神の国の民とは、自分が罪人であると認め、イエス様によって罪赦された人々のことであることが分かる。きっと取税人マタイはイエス様によってもたらされた神の国の民の象徴的存在であったのであろう。マタイは自分が取税人であることを隠すことはなかった(参照マタイ10:3参照)。ところでイエス様の弟子となるというマタイの決断は、後戻りはできない大変リスクの伴うものであった。どうしてマタイはその決断をすることができたのか。それは自分の全財産を捨てても、イエス様の弟子となる、神の国の民となることが価値のある事であると考えたからです。この決断をしたマタイは、神様に豊かに用いられ、全世界に福音を伝えるマタイの福音書を記すなど、素晴らしい働きをした。 ]]>
6月4日説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241828212/
2023-06-13T10:58:00+09:00
2023-06-13T10:58:04+09:00
2023-06-13T10:58:04+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは万軍の主の御座に引き上げられた。セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる」と賛美し、その賛美の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。イザヤは、全身で聖なる万軍の主と出会った。その時、彼は自分が滅んでしまうと思うほどの罪人であることを知った。どうして、彼はそれほど自分の罪を受け止めることができたのか。それは他の人との比較によってではなく、ただ主の聖さの前で自分を見たからである。すると、万軍の主は、イザヤにセラフィムを遣わした。セラフィムは祭壇の上から燃え盛る炭を持って行き、炭をイザヤの唇に触れさせて「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と言った。罪赦されたイザヤは、滅びを免れ主と交わる者とされたことに、平安と喜びを感じた事だろう。そのイザヤに主は「だれを、わたしは遣わそう」と言った。イザヤに働きを強制されず、彼の自由意志に任せた。イザヤは、「ここに私がおります。わたしを遣わしてください」と主に献身した。7章以降にイザヤの預言者としての活動が記されている。 新約聖書に照らしてこの箇所を見る。ヨハネはイザヤが見た聖なる、聖なる、聖なる万軍の主とはイエス様のことであると記している(ヨハネ12:41)イザヤが全身で受け止めた聖なる、聖なる、聖なる万軍の主であるイエス様が、人々の罪の赦しのためにセラフィムを遣わすのではなく、2000年前にこの地上に来られたのである。そして、ご自身が全ての人の罪の身代わりになるために十字架に架かられ死なれた。イエス様はご自分を信じる者に、罪の赦しを与えて下さる。私たちは、聖なる主の御前に、滅びてしまうほどの罪人であった。その私たちが尊い犠牲によって罪赦された。今、イザヤに「だれを、わたしは遣わそう」と語られた主は、私たちにも語り掛けておられる。]]>
5月21日説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241824622/
2023-06-08T15:31:00+09:00
2023-06-13T14:54:21+09:00
2023-06-08T15:31:06+09:00
ybible63
★歓迎
牧師 鳥居 完次 創造主への反逆によって失われた「神(と)の平安」を回復させてくださるために、神は、御子イエス・キリストの十字架と復活による救いの道を用意して下さった。1.いつも「祈る」ことを通して「神の平安」を持つことができる。神の平安は、時々刻々変化する状況に応じて用意され続けている。神は、御子イエス・キリストの十字架の代価を払ってその神の平安を私たちの下に届けてくださった<ヨハネ14:27、16:33>。2.キリストが実際に私たちの内に残してくださった「キリストの平安」とは、如何なるものか。ゲッセマネの園での苦悶の祈りには<マタイ26:39>、まさにその時、主イエス・キリストが、父なる神ご自身の心の内にある思いを完全に共有できていたことが分かる。これこそが、キリストご自身が私たちに残してくださった「キリストの平安」、すべての理解を超えた「神の平安」である。それ故にキリストは、神と私たち人間の間を結びつける完全な大祭司としての資格を持っておられるのである<へブル5:7~10>。3.「イエス・キリストの名によって」祈るように勧められている<ヨハネ16:24.33>。確かに、まさに<イザヤ41:13>で預言されている主こそ、十字架と復活を通して罪と死に対して完全勝利し、神との完全な平和・平安を回復させてくださった主イエス・キリストご自身のことである。その意味で、今や、互いに「主イエス・キリストの名」によって祈り合うことによって、たとえ、どんなことが起こっても、まさに「神の平安」を味わうことができる。実は、これこそが、主イエス・キリストを心の内に信じ共有しているキリスト者同士に与えられている、素晴らしい恵みなのである。 ]]>
5月28日礼拝説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241824618/
2023-06-08T15:31:00+09:00
2023-06-13T10:58:57+09:00
2023-06-08T15:27:06+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
「約束の聖霊」(エペソ1章3~14節) 紺野真和 1,神の民であるしるし。神は、神の民とアブラハム契約を結ばれた時、主の民に契約のしるしとして割礼を施すことを命じられた。旧約時代にイスラエルの民は割礼を通して自分たちが神の民であることを覚えた。イエス様の十字架によってもたらされた新しい契約のしるしは割礼ではなく、聖霊である。パウロは「御霊による心の割礼こそ割礼だからです」(ロマ2:29)と語る。また、「このキリストにあって、あなたがたもまた、・・・約束の聖霊によって証印を押されました」と聖霊が神の国の民であることのしるしであると語る。クリスチャンには神の国のしるしとして聖霊が与えられている。2,聖霊の働き。神の国の民のしるしとして与えられた聖霊なる神様は、クリスチャンに大きな働きをなさる。第一にクリスチャンを肉の欲から解放し、クリスチャンの内に聖霊の実(愛、喜び、平安、・・)を結んで行き、キリストに似た者へと造り変えて行く事、聖化させて行く事である。このことは、神様が宇宙を創造される前から決定していた大切なことである。「神は、世界の基の据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです(聖化の事)」とある。聖霊なる神様の第二の働きは、クリスチャンを神様の子どもとする事である。イエス様は父なる神様の実子あるが、聖霊はクリスチャンを養子として下さった。それはただ立場上のことではなく、生きた交わりの伴うものである。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます」(エペソ8:15)。これらの聖霊の働きは、私たちが聖霊に従って生きて行く時に達成されて行く。 日々、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)の言葉を聞いて行きましょう。]]>
5月28日礼拝説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241824619/
2023-06-08T15:27:00+09:00
2023-06-13T10:59:16+09:00
2023-06-08T15:27:08+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
紺野真和 1,神の民であるしるし。神は、神の民とアブラハム契約を結ばれた時、主の民に契約のしるしとして割礼を施すことを命じられた。旧約時代にイスラエルの民は割礼を通して自分たちが神の民であることを覚えた。イエス様の十字架によってもたらされた新しい契約のしるしは割礼ではなく、聖霊である。パウロは「御霊による心の割礼こそ割礼だからです」(ロマ2:29)と語る。また、「このキリストにあって、あなたがたもまた、・・・約束の聖霊によって証印を押されました」と聖霊が神の国の民であることのしるしであると語る。クリスチャンには神の国のしるしとして聖霊が与えられている。2,聖霊の働き。神の国の民のしるしとして与えられた聖霊なる神様は、クリスチャンに大きな働きをなさる。第一にクリスチャンを肉の欲から解放し、クリスチャンの内に聖霊の実(愛、喜び、平安、・・)を結んで行き、キリストに似た者へと造り変えて行く事、聖化させて行く事である。このことは、神様が宇宙を創造される前から決定していた大切なことである。「神は、世界の基の据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです(聖化の事)」とある。聖霊なる神様の第二の働きは、クリスチャンを神様の子どもとする事である。イエス様は父なる神様の実子あるが、聖霊はクリスチャンを養子として下さった。それはただ立場上のことではなく、生きた交わりの伴うものである。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます」(エペソ8:15)。これらの聖霊の働きは、私たちが聖霊に従って生きて行く時に達成されて行く。 日々、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)の言葉を聞いて行きましょう。]]>
5月14日説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241824615/
2023-06-08T15:24:00+09:00
2023-06-13T10:59:37+09:00
2023-06-08T15:24:03+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
イエス様はユダヤの祭りの時、ベテスダの池で38年もの病気の人に「床を取り上げて歩け」と言われ癒された。その日が安息日であったので、ユダヤ人はイエス様が安息日律法を破ったとして迫害した。するとイエス様は「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(17節)と言われ、自分が神と等しい存在であることを伝えられた。この後、イエス様は自分が神の子キリストである事を伝えられた。律法では事の真偽は2,3人の証言によって立証されなければならないとされていたので(申19:15)、イエス様はご自分が神の子キリストであることを2,3の証言をもって立証された。
1,バプテスマのヨハネ(33節)。ヨハネは神様から御霊が天から鳩のように下って来るのを見たら、その人がメシアであることを知らされていた。イエス様にそのことが起こったので、イエス様が神の子であると証言した。しかし、それは大きな証言ではない(35)。
2,イエス様のみわざ(36節)。イエス様が行った様々なしるしが、イエス様が神の子キリストであることを証している。一番近い所では38年もの病気の人の癒しである。バプテスマのヨハネが、イエス様が神の子キリストであることが分からなくなっていた時、イエス様はバプテスマのヨハネの弟子達を通して「目の見えない人が見、足の不自由な人な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています」とヨハネに伝えた。しかし、イエス様の業とは奇跡だけではなく、イエス様の行動、言葉、全生活である。
3,旧約聖書(39節)。5つの契約に従ってそのことを見ていく時、旧約聖書はイエス様が神の子メシアであることを証言していることが明確である。
しかし、今日の科学のように証拠の積み重ねによってイエス様が神の子キリストであることが立証できるのかというとそうではない。イエス様を信じた時に、上記で見てきたことが鮮明に見えてくるのである(36節)。聖霊の内住が先である。
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4月21日礼拝説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241796170/
2023-05-05T19:16:00+09:00
2023-05-05T19:16:25+09:00
2023-05-05T19:16:25+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
牧師 紺野真和 捕囚時代、主はエゼキエルにすばらしい幻を見せられた。その幻とは、新しい神殿とその神殿に主がご臨在されることと、その神殿から流れ出る水によって、荒野が緑の地に、死海が数多くの種類の魚が住む生きた湖になるというものである。新約聖書の光に照らすと、神殿とは、イエス様の体である教会であり、神殿から流れ出す水とは主の祝福(共通の恵み、特別の恵み)であることが分かる。教会が立てられ2000年間、教会を通して主の祝福が世界に注がれて来た。数年来の私たちの教会の歩みを振り返ってみる。私たちの教会は5年前に社会に仕えて行く事を意識し、「遣わされているところで人々に仕えよう」とテーマを掲げた。その時、第五地区の「ふれあいサロン」の案内が届き、第五小学校でハンドベルクワイヤートゥッティが演奏して、大変喜ばれた。2019年に信者さん宅の購入の話しが飛び込んだ。臨時総会を開き、教会、幼稚園、地域社会に用いて行くために購入することを決議した。そして使いやすいようにリフォームした。又2020年度には人々の英語教育と福音宣教のために「マルちゃん英語東原」を開講した。更に東原幼稚園は、0歳からの子どもたちに神様の祝福を届けるために2023年4月より認定こども園として開園した。現在、私たちの教会を通して主の恵みが届けられている。これから特別な恵みもお伝えして行きたい。そのために人々が御言葉に触れる機会を増やしていきたい。これまで私たちの教会では、燭火礼拝の時に多くのノンクリスチャンの方々が集っているので、キリスト教の三大祭りであるイースター、ペンテコステの時も賛美礼拝として、多くの方をお迎えする礼拝として行きたい。そして、次には毎週行われている礼拝に、多くの方が気軽に集い共に賛美しみことばに耳を傾けるようになって行く事を目指していきたい。 私たちの教会を通して共通の恵み、そして特別の恵みが、私たちの家族に、友人に、知人に、地域社会に届けられて行く教会として歩ませていただきたいと願わされる。 ]]>
4月9日礼拝説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241785502/
2023-04-22T18:52:00+09:00
2023-04-22T18:52:53+09:00
2023-04-22T18:52:53+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
多くの人は死者の復活は信じられないと考える。弟子達にとっても信じがたい事であった。彼らがどのようにして信じるようになったのかを見る。1,空の墓。イエス様は死後、アリマタヤのヨセフの墓に葬られた。三日目の日曜日の朝、女性達はイエス様の体に香料を塗るために墓に行った。彼女たちは墓の中にイエス様の体がないことを見た。マグダラのマリアは墓を塞ぐ石が転がしてあるのを見た時、イエス様の体が盗まれたと早とちりし、弟子達に伝えに行った。ペテロとヨハネが墓に行き墓の中を見た。彼らはイエス様の体は墓にはなく、イエス様の体を包んだ亜麻布と布だけがあるのを見た。その後、マグダラのマリアも墓の中にイエス様の体がないことを見た。この事は弟子達が墓に行けば何度でも確認することができた事実であった。2,顕現。最初、復活されたイエス様はマグダラのマリアに現れた。次に女性たちに、続いてペテロに姿を現された。その日の夕方、エマオに向かっていた二人の弟子に現れた。彼らはエルサレムに戻りそのことを使徒たちに伝えた。するとそこにイエス様が現われた。次の日曜日トマスのためにトマスを含む使徒たちに現れた。使徒たちは疑り深い人であった。トマスは、自分は「釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません」と言った。また、彼らは一度復活されたイエス様を見て信じられたわけではなかった。何度かイエス様に会った後でも疑う弟子たちがいたと聖書は記している。その彼らがはっきりと信じることができるように、イエス様は40日に渡って確実な証拠をもって彼らに復活したことを示された。 今、私たちは弟子たちのようにイエス様の墓を見ることも、自分の目で復活されたイエス様を見ることもない。それでは信じられないのか。使徒の働きに、大勢の人々が弟子たちの証言を通して信じたことが記されている。今日、私たちは聖霊が教えて下さる聖書を通してイエス様の復活を信じるように導かれている。 イエス様の復活によって、イエス様が神であることが全世界に明らかにされた。]]>
4月2日説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241777161/
2023-04-13T12:00:00+09:00
2023-04-13T12:00:15+09:00
2023-04-13T12:00:15+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
十字架に架かられたイエス様は様々な苦しみを受けられた。まず肉体の苦しみである。イエス様は十字架刑の前に兵士達に鞭で打たれた。鞭は先端に金属や貝殻が付けられていた。打たれると金属が肉に食い込み裂かれ、出血多量で死ぬことがあった。ゴルゴタの丘で、十字架の横木に手首を、縦木に両足を釘で打ち付けられた。またイエス様は十字架で心の苦しみを受けられた。十字架に架かられる前に3年間愛を注いできたイスカリオテ・ユダに裏切られ、またその他の弟子達は自分たちが捕えられることを恐れ離れて行った。十字架上では、野次馬、祭司長、律法学者、共に十字架につけられた者達、そして兵士達に嘲られ罵られた。しかし、これらの苦しみよりはるかに大きな苦しみがイエス様を襲った。イエス様は肉体の苦しみ、心の苦しみのためには叫び声を上げなかったが、この苦しみのためには「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」)と叫び声を上げた。イエス様は、ゲツセマネの園で「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と祈るほど、神様に見捨てられるという苦しみを恐れていた。イエス様は十字架上で苦しまれた。 どうしてイエス様は十字架に架かられたのか。多くの人々は、祭司長、律法学者、パリサイ人達がイエス様を妬み、イエス様を殺すために十字架に架けたのだと考える。しかし聖書はイエス様が十字架に架かられた本当の意味を伝えている。その事を私たちはイエス様の十字架上での叫びから知る事ができる。イエス様は父なる神様に見捨てられるために十字架に架かられたのである。神様と引き離す者は何か。罪である。しかしイエス様は生涯一つの罪も犯されなかった。イエス様は、自分の罪のためにではなく、全人類の罪を十字架で背負われたのである。主は、私たちの罪を背負い私たちの代わりに裁かれて下さったのである。その事によって私たちに罪の赦し、神との平和、神との交わりを与えて下さった。イエス様が浴びせられた罵声は、みな自分を救ってみろであった。イエス様は自分を救えなかったのではない。私たちを救うために自分を救わなかったのである。受難週、イエス様の御苦しみと恵みを覚えよう。 ]]>
3月26日(日)説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241768709/
2023-04-03T17:26:00+09:00
2023-04-03T17:26:34+09:00
2023-04-03T17:26:34+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
「主の心」(マルコ1章40~45節) 牧師 紺野真和 イエス様は権威をもって御言葉を語り、御業をなさることを通して、神の国が到来したことを示した。神の国を見るとは、自分に、教会に、全世界に絶対的な主権者なるイエス様のご支配を見る事である。 イエス様が、山上の説教を語り終え、群衆がイエス様に従っていた時、突然、ひとりのツァラアトの病を持つ人が現われ、イエス様の御許に跪いた。群衆は恐れ離れたが、イエス様は留まった。当時、ユダヤ人にとってツァラアトの病は最も悲惨な病であった。この人は多くの苦しみを背負わされていた。まず肉体の苦しみである。ルカの福音書を見ると、この人は全身ツァラアトであったと記されている。全身を搔きむしり膿んでいたのかもしれない。次に神に見捨てられていたと受け止める苦しみである。当時、みことばの誤った理解から、ツァラアトの病は神の裁きであると考えられていた。この人は、周りから、そしてその人自身も、神に裁かれ、神に見捨てられていると受け止めていた。さらに、この汚れは他の人にうつると考えられていた。なので、ツァラアトの病の人は隔離され、愛する家族、友人と離れ生活することを強いられた。彼は多くの苦しみを背負っていた。イエス様は、他の人々とは違い、彼のもとに留まった。福音書著者マルコはイエス様のこの人に対する御思いを記している。これまで何度もイエス様は癒しの奇跡を行なわれてきたが、ここでマルコは病人に対するイエス様の御思いを記した。イエス様の御思いは憐れみであった。このあわれみという言葉は、単なるかわいそうという思いではなく、内臓が揺れ動くほどの感情である。それは、その人の苦しみ、悲しみを本当に知られた所からくる御思いである。きっとこの人はイエス様が自分のこれまで背負って来た苦しみを全て受け止めて下さっている事を知り心深く慰められた事だろう。イエス様は、彼に手を伸ばして彼に触られた。人々はこのツァラアトの人を軽蔑し、隔離していたが、イエス様は愛を現わされた。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛である。神の国とは、イエス様の力だけはなく、愛によるご支配でもある。 ]]>
3月26日(日)説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241768708/
2023-04-03T17:26:00+09:00
2023-04-03T17:26:32+09:00
2023-04-03T17:26:32+09:00
ybible63
★礼拝説教要約
「主の心」(マルコ1章40~45節) 牧師 紺野真和 イエス様は権威をもって御言葉を語り、御業をなさることを通して、神の国が到来したことを示した。神の国を見るとは、自分に、教会に、全世界に絶対的な主権者なるイエス様のご支配を見る事である。 イエス様が、山上の説教を語り終え、群衆がイエス様に従っていた時、突然、ひとりのツァラアトの病を持つ人が現われ、イエス様の御許に跪いた。群衆は恐れ離れたが、イエス様は留まった。当時、ユダヤ人にとってツァラアトの病は最も悲惨な病であった。この人は多くの苦しみを背負わされていた。まず肉体の苦しみである。ルカの福音書を見ると、この人は全身ツァラアトであったと記されている。全身を搔きむしり膿んでいたのかもしれない。次に神に見捨てられていたと受け止める苦しみである。当時、みことばの誤った理解から、ツァラアトの病は神の裁きであると考えられていた。この人は、周りから、そしてその人自身も、神に裁かれ、神に見捨てられていると受け止めていた。さらに、この汚れは他の人にうつると考えられていた。なので、ツァラアトの病の人は隔離され、愛する家族、友人と離れ生活することを強いられた。彼は多くの苦しみを背負っていた。イエス様は、他の人々とは違い、彼のもとに留まった。福音書著者マルコはイエス様のこの人に対する御思いを記している。これまで何度もイエス様は癒しの奇跡を行なわれてきたが、ここでマルコは病人に対するイエス様の御思いを記した。イエス様の御思いは憐れみであった。このあわれみという言葉は、単なるかわいそうという思いではなく、内臓が揺れ動くほどの感情である。それは、その人の苦しみ、悲しみを本当に知られた所からくる御思いである。きっとこの人はイエス様が自分のこれまで背負って来た苦しみを全て受け止めて下さっている事を知り心深く慰められた事だろう。イエス様は、彼に手を伸ばして彼に触られた。人々はこのツァラアトの人を軽蔑し、隔離していたが、イエス様は愛を現わされた。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛である。神の国とは、イエス様の力だけはなく、愛によるご支配でもある。 ]]>
3月26日説教要約
http://ybible63.exblog.jp/241765007/
2023-03-31T06:39:00+09:00
2023-03-31T06:39:30+09:00
2023-03-31T06:39:30+09:00
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★礼拝説教要約
牧師 紺野真和 イエス様は旧約聖書に約束されていた神の国をもたらした。神の国とは、イエス様のご支配のことであり、個人、教会、そして全世界に及ぶものであり、その完成はイエス様の再臨の時である。イエス様は権威ある教えと権威ある御業によって神の国が到来したことを伝えた。今朝はイエス様が悪霊のかしら、悪魔になしたことを見る。 1,悪魔の敗北。悪魔は天使が高慢のゆえに堕落したものであり、アダムとエバを誘惑し罪を犯させて以来、人間を誘惑し神に近づけないようにしている。イエス様はその悪魔を滅ぼすために来られた。悪魔の敗北は、イエス様が地上で神様の御心に従い、最後に全ての人の贖いのために十字架で死ぬことによってもたらされる。悪魔はイエス様にそうさせまいと働いた。ヘロデ王を通してイエス様を殺そうとしたり、荒野で誘惑したり、ペテロを通して十字架の道から引き離そうとしたりした。しかし、イエス様は最後まで徹底して父なる神様に従い、すべての人のために十字架に架かり死なれた。この事を通して悪魔は敗北した。しばらくの間、悪あがきはするが、神様の時に燃えるゲヘナに投げ込まれ滅ぼされる。すなわち、イエス様の十字架によって神の国の完成することが決定したのである。従ってクリスチャンは確信をもって神の国の完成を待ち望む事が出来るのである。 2,悪魔からの解放。聖書はイエス様を信じる前は、その人は気付いていないが悪魔の支配の内にあると語る(使徒27:16~18)。イエス様を信じる者は、悪魔の支配から解放されてイエス様の支配に移されたと語る(コロサイ1:13)。以前使っていた讃美歌「もろびとこぞりて」には、イエス様が悪魔の牢獄に捕えられていた私たちを解放して下さった事が歌われている。悪魔の牢獄とはどのような所か。①霊的孤独、②不安、③拘束されている所である。イエス様の十字架によって、そのような牢獄から解放された私たちには、神様との交わりが与えられ、頼るべき方を持つことができ、喜んで自由に生きる事ができるようにされた。 ]]>
3月5日説教要約
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2023-03-18T16:17:00+09:00
2023-03-18T16:17:15+09:00
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ybible63
★礼拝説教要約
イエス様は、バプテスマのヨハネが領主ヘロデに捕えられた時、ガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始めた。イエス様が最初にしたことは、神の国を広げて行くために弟子を選び教える事であった。当時、弟子が師を選んでいたが、イエス様は逆に弟子を選ばれた。今朝はイエス様がなされた大漁の奇跡から、イエス様が弟子として選ばれた二つのことを見て行く。1,イエス様をすべての主であると受け止める信仰。ペテロはこの時より以前、バプテスマのヨハネの弟子であり兄弟であったアンデレにイエス様がメシアであると紹介した。その時からペテロはある時はイエス様と共に、他は自分の生活のために行動した。この事が良くないわけではないが、ペテロの場合問題があった。ペテロはイエス様と共に行動する時にはイエス様をメシアと仰ぎ歩み、その他の時にはイエス様をメシアと思わず生活していた。そのようなペテロにイエス様は大漁の奇跡を見せられた。その奇跡を見たペテロはイエス様が全ての主であると受け止め、イエス様の御前にひれ伏し「主」と告白した。2,罪の赦しを受け止める信仰。イエス様の奇跡を見たペテロはイエス様が聖なる方であると知り、自分の罪深さを受け止めた。彼は「主よ。私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と告白した。この場面は旧約聖書の預言者イザヤの召命と似ている。イザヤは聖なる万軍の主を見た時、自分の汚れを知った。主はそのイザヤに罪の赦しを与えられた。そしてイザヤをご自分の働きのために選ばれた。ペテロもイエス様の聖さに触れ、自分の罪深さを知った。イエス様はそのペテロから離れることをせず、「恐れることはない」と言われた。ここにイエス様からの罪の赦しの言葉はないが、きっとペテロは罪の赦しを覚えた事であろう。イエス様はそのペテロをご自分の弟子として招かれた。 イエス様が弟子として招かれる者は、イエス様を全世界の主であると受け止め、イエス様の十字架を通して罪赦された者です。すなわちクリスチャンです。イエス様は神の国の拡大のために、私たちを選ばれた。この週も与えられた賜物を通して神の国拡大の使命に生きよう。 ]]>
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