2009年 02月 13日
閉塞感を打ち破るもの |
牧師 鳥居 完次
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているか
らだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える
計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
エレミヤ29章11節
昨年来、世の中が急速に閉塞感に襲われてきたようである。教会もその影響の中に置かれている。しかし、教会はその閉塞感に押し流されてはいけない。いや、押し流されてしまうはずがない。なぜなら、冒頭の聖句にあるように、それを打ち破るものを主から与えられているからである。
エレミヤの預言当時、民はバビロン捕囚という暗く悲劇的な時代を送っていた。しかし、それがたとえどのような環境、状況であっても、神の民としての生活はそこにおいても続けられなければならない。いや、何よりも主からの平安は、日常・毎日の地道な信仰生活の営みの中に(こそ)ある(用意されている)というのがここでのメッセージである。その意味では、この主からの約束のメッセージは神からの一方的な働きかけによって与えられる(与えられている)ことが分かる。即ちそれは、救い主イエス・キリストによって与えられたものであり、今や信じる者の内に届けられているキリストの平安である(「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」<ヨハネ14:27>)。
この世にあってどのような閉塞感に見舞われても、私たちはそれを打ち破るものを持っている。つまり、主が与えてくださるキリストの平安と希望である。八方ふさがりでも、上(天)だけは開かれている。それ故に、日々、この「主から与えられる平安の約束の中に私たちは握られている」という「平束観」にしっかりと立ち、立ち続けていきたい。
(2009年元旦礼拝メッセージ要旨)
by ybible63
| 2009-02-13 17:44
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