2007年 04月 24日
第34章 |
心理学とキリスト教
心理学は、感覚、知覚、認知、記憶、学習、言語、思考、感情、動機づけ、発達などの各側面から人間の心の性質や機能を明らかにしていく学問です。
しかし、一般の人々にとっては、心理学は情緒的不調や発達のつまずき、あるいは社会不適応を測定、観察、分析、評価、治療するためのものと考えられる傾向があります。
そのような実用的な心理学は「臨床心理学」と呼ばれ、その実践を「心理臨床」と呼び、その技法を「心理療法」と呼びます。
心理療法にはさまざまなものがあります。
たとえば、精神分析療法、交流分析療法、行動療法、自律訓練法、認知療法、来談者中心療法、内観療法、遊戯療法、箱庭療法、芸術療法、家族療法などはよく知られているものですが、他にも多くの種類があり、有効性が確認されています。
これらへの導入面接ではたいていカウンセリング技法が用いられます。
また、症状や問題が軽微な場合はカウンセリング技法による面接療法を続けていくだけで改善されていくこともあります。
ある著名な精神科医が、近年においてなぜカウンセリングが多く必要になったかと語っておられました。
どんなに健康な人でも、たまには愚痴を聞いてもらわないとストレスがたまってきて、気持ちの安定や体調が崩れてしまうこともあります。
昔は大家族だったり近所付き合いが多かったりして、中には愚痴を聞いてくれるおばあちゃんやご隠居さんや青年団の友だちや婦人会の仲間などがいたのです。
しかし、近年の核家族化と地域交流の希薄化によって、愚痴を聞いてくれる人が少なくなってしまったために、気持ちの安定や体調を崩してしまう人が増えてしまい、話を聴く専門家の必要性が高くなってきたというのです。
それが、最近の臨床心理学の流行とも関係しているというのです。
臨床心理学の目的は、冒頭にも書いたように、情緒的不調や発達のつまずきや社会不適応の治療などであり、いわば広い意味での心の「癒し」です。
これだけでもかなり生活がしやすくなり、幸福にもなれます。
しかし、私たちの人生には臨床心理学によっても解決されない心の問題、むしろ魂の問題とでも言った方がよいような問題があるように思えるのです。
私は小学校1年生のときに万引きをしたことがあります。
何十年も前のことです。当時は森永製菓のパレード・チョコレートという商品がよく売れていました。
このチョコレートは明治製菓のマーブル・チョコレートと同じような商品なのですが、テレビで人気のあった「三バカ大将」という番組のキャラクター・バッジがおまけについていたのです。
値段は30円で小遣いを貯めれば買えないものでもなかったのですが、私はどうしてもすぐに欲しかったのです。
そのことをある友だちに相談したら、彼も私と同じように欲しがっていました。
それで、彼と協力して近所の商店でパレード・チョコレートを2本盗ることにしたのです。
私は見張りと合図をする係で、彼は私の合図を見て商品を自分のポケットに入れる係でした。計画は成功しました。
彼と私は人目につかない場所でチョコレートを分け、バッジを楽しみました。
しかし、喜びはつかの間でした。
その日の夕方から気持ちがどんどん重苦しくなり、その後何年経ってもこの件に関する罪責感は軽くなりませんでした。
病むほどではないにしても、心の中にいつも引っかかりがあるのです。
40歳になる少し前のある日、こんな気持ちを一生持ちながら生きていきたくはないと考えました。
そこで、実家に帰省したおりにその商店に謝りに行ったのです。
それも一人で行くのが気まずかったので、アイスクリームを買ってやるという約束で幼稚園児だった息子を連れて行きました。
息子は喜んでついてきてくれました。
その商店は幸いにもまだ営業していました。
店内の様子も匂いも昔のままでしたが、若旦那はおじいさんになっていました。
アイスクリームを買って支払ったあと、私は「実は、昔近所に住んでいた佐竹真次ですが、お金を払わないでチョコレートを2本盗ってしまったことがありまして、おわびとともにお金を払いに参りました」と言って100円玉を1枚差し出しました。
旦那さんは私を覚えていて、「なつかしいね。そんなことがあったんだ。わざわざ来てくれてありがとうね。お金はいらないよ」と言ってくれました。
でも私はお願いして100円を受け取ってもらいました。旦那さんはニコニコと見送ってくれました。
息子と一緒に商店を出た瞬間、何十年間も心に引っかかっていたしこりが消え去りました。
聖書にはこんな出来事が記載されています。
「男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。
そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」(ルカ5:18-26)
聖書によれば、「罪の赦し」よりも、「起きて歩け」という「癒し」の方がやさしいということになります。明日をも知れぬ身の中風の患者が本当に欲していたものは当面の「癒し」ではなく、「罪の赦し」いわば「魂の救い」であったということは想像に難くありません。
私の万引きによる心のしこりは何も日常生活に影響を及ぼすほどではありませんでしたから、「癒されている」状態だったのでしょう。
しかし、罪責感には苦しんでいました。罪責感があるということは「赦されていない」状態であるともいえます。
そして、万引きについて赦す資格のある商店の旦那に赦してもらうことによって、私はやっと心のしこりから解放されました。
もちろん、イエス様からは信仰によってすでに赦していただいていたと思います。
しかし、「商店の旦那にも謝罪できるうちに謝罪してきなさい」とイエス様から言われているようにも感じていたのです。
このように、臨床心理学も医療も「癒し」以上のことはしませんし、できません。
しかし、イエス様は地上で罪を赦す権威を持っていらっしゃるのですから「癒し」以上のことがおできになります。
すなわち、人の罪を「赦し」、人にいのちの「救い」を与えることがおできになるのです。
その差はものすごく大きいと思うのです。
心理学は、感覚、知覚、認知、記憶、学習、言語、思考、感情、動機づけ、発達などの各側面から人間の心の性質や機能を明らかにしていく学問です。
しかし、一般の人々にとっては、心理学は情緒的不調や発達のつまずき、あるいは社会不適応を測定、観察、分析、評価、治療するためのものと考えられる傾向があります。
そのような実用的な心理学は「臨床心理学」と呼ばれ、その実践を「心理臨床」と呼び、その技法を「心理療法」と呼びます。
心理療法にはさまざまなものがあります。
たとえば、精神分析療法、交流分析療法、行動療法、自律訓練法、認知療法、来談者中心療法、内観療法、遊戯療法、箱庭療法、芸術療法、家族療法などはよく知られているものですが、他にも多くの種類があり、有効性が確認されています。
これらへの導入面接ではたいていカウンセリング技法が用いられます。
また、症状や問題が軽微な場合はカウンセリング技法による面接療法を続けていくだけで改善されていくこともあります。
ある著名な精神科医が、近年においてなぜカウンセリングが多く必要になったかと語っておられました。
どんなに健康な人でも、たまには愚痴を聞いてもらわないとストレスがたまってきて、気持ちの安定や体調が崩れてしまうこともあります。
昔は大家族だったり近所付き合いが多かったりして、中には愚痴を聞いてくれるおばあちゃんやご隠居さんや青年団の友だちや婦人会の仲間などがいたのです。
しかし、近年の核家族化と地域交流の希薄化によって、愚痴を聞いてくれる人が少なくなってしまったために、気持ちの安定や体調を崩してしまう人が増えてしまい、話を聴く専門家の必要性が高くなってきたというのです。
それが、最近の臨床心理学の流行とも関係しているというのです。
臨床心理学の目的は、冒頭にも書いたように、情緒的不調や発達のつまずきや社会不適応の治療などであり、いわば広い意味での心の「癒し」です。
これだけでもかなり生活がしやすくなり、幸福にもなれます。
しかし、私たちの人生には臨床心理学によっても解決されない心の問題、むしろ魂の問題とでも言った方がよいような問題があるように思えるのです。
私は小学校1年生のときに万引きをしたことがあります。
何十年も前のことです。当時は森永製菓のパレード・チョコレートという商品がよく売れていました。
このチョコレートは明治製菓のマーブル・チョコレートと同じような商品なのですが、テレビで人気のあった「三バカ大将」という番組のキャラクター・バッジがおまけについていたのです。
値段は30円で小遣いを貯めれば買えないものでもなかったのですが、私はどうしてもすぐに欲しかったのです。
そのことをある友だちに相談したら、彼も私と同じように欲しがっていました。
それで、彼と協力して近所の商店でパレード・チョコレートを2本盗ることにしたのです。
私は見張りと合図をする係で、彼は私の合図を見て商品を自分のポケットに入れる係でした。計画は成功しました。
彼と私は人目につかない場所でチョコレートを分け、バッジを楽しみました。
しかし、喜びはつかの間でした。
その日の夕方から気持ちがどんどん重苦しくなり、その後何年経ってもこの件に関する罪責感は軽くなりませんでした。
病むほどではないにしても、心の中にいつも引っかかりがあるのです。
40歳になる少し前のある日、こんな気持ちを一生持ちながら生きていきたくはないと考えました。
そこで、実家に帰省したおりにその商店に謝りに行ったのです。
それも一人で行くのが気まずかったので、アイスクリームを買ってやるという約束で幼稚園児だった息子を連れて行きました。
息子は喜んでついてきてくれました。
その商店は幸いにもまだ営業していました。
店内の様子も匂いも昔のままでしたが、若旦那はおじいさんになっていました。
アイスクリームを買って支払ったあと、私は「実は、昔近所に住んでいた佐竹真次ですが、お金を払わないでチョコレートを2本盗ってしまったことがありまして、おわびとともにお金を払いに参りました」と言って100円玉を1枚差し出しました。
旦那さんは私を覚えていて、「なつかしいね。そんなことがあったんだ。わざわざ来てくれてありがとうね。お金はいらないよ」と言ってくれました。
でも私はお願いして100円を受け取ってもらいました。旦那さんはニコニコと見送ってくれました。
息子と一緒に商店を出た瞬間、何十年間も心に引っかかっていたしこりが消え去りました。
聖書にはこんな出来事が記載されています。
「男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。
そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。
彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」(ルカ5:18-26)
聖書によれば、「罪の赦し」よりも、「起きて歩け」という「癒し」の方がやさしいということになります。明日をも知れぬ身の中風の患者が本当に欲していたものは当面の「癒し」ではなく、「罪の赦し」いわば「魂の救い」であったということは想像に難くありません。
私の万引きによる心のしこりは何も日常生活に影響を及ぼすほどではありませんでしたから、「癒されている」状態だったのでしょう。
しかし、罪責感には苦しんでいました。罪責感があるということは「赦されていない」状態であるともいえます。
そして、万引きについて赦す資格のある商店の旦那に赦してもらうことによって、私はやっと心のしこりから解放されました。
もちろん、イエス様からは信仰によってすでに赦していただいていたと思います。
しかし、「商店の旦那にも謝罪できるうちに謝罪してきなさい」とイエス様から言われているようにも感じていたのです。
このように、臨床心理学も医療も「癒し」以上のことはしませんし、できません。
しかし、イエス様は地上で罪を赦す権威を持っていらっしゃるのですから「癒し」以上のことがおできになります。
すなわち、人の罪を「赦し」、人にいのちの「救い」を与えることがおできになるのです。
その差はものすごく大きいと思うのです。
by ybible63
| 2007-04-24 05:51