2007年 04月 17日
やむにやまれぬ母のウソ |
第33章
子育てをしている若いお母さんからよく受ける質問です。
「下の子が生まれて手がかかるので、上の子が赤ちゃん返りしちゃって大変なんです。下の子に乱暴することもあるし。それに、淋しそうに一人遊びをしていることもあって、気になります。上も下も平等に愛したいのですが、どちらかを1番に愛すると、もう一人が2番になってしまうでしょ。母親としていたたまれない気持ちになってしまうのです。どうしたらいいのでしょうか。」
子どもの年齢や性格が違えば、お世話に平等に時間をかけられるということはまずないでしょうから、時間的な差は必ず生じます。
上の子とのかかわりの頻度が少なくなったり、「もうお兄(姉)ちゃんでしょう」などと言って急いで自立を促そうとしたりします。
上の子はそれまで両親の関心や愛情を一身に受けていたのに、赤ちゃんにそれを奪われたと思い込み、嫉妬の感情をもつようになります。
そして、赤ちゃんのまねをするかのように、今まで自分でできていたことをやらなくなったり、母親に手伝わせようとしたりします。
また、母親が赤ちゃんの世話をしているときに、母親の注目を引こうとして盛んにいたずらをしたり、赤ちゃんを攻撃したりします。
これが退行現象(赤ちゃん返り)です(文献)。
それは、人は誰でも「愛する人から自分を1番に愛して欲しい」という気持ちをもっていることの証拠でもあります。
そのような注目の要求に応えるためには、限られた時間の中で「あなたを1番に愛しているよ」というメッセージを伝える必要があります。
そのためには、親子2人だけの場面を活用して、ほぼ十分に遊んであげた上で、「あなたを1番に愛しているよ」と言えばいいのです。
とくに、息子1人と娘1人だけの場合は便利です。
「世界一の息子(娘)だよ」という表現も気軽に使えるからです。
そのようなかかわりを続けているうちに、母親の愛情が奪われたわけではないことに気づき、安心感を取り戻して、兄(姉)としての役割を果たそうとするようになっていきます。
しかし、ここに一つ問題があります。
「1番に愛しているよ」ということばを使うことにひどく抵抗を感じるお母さんもいるからです。
ひとりの子どもに「あなたを1番に愛しているよ」と言ってしまったら、他の子は2番、3番になってしまう。
そんなことは許せない。
でも、みんなに「1番に愛しているよ」と言ってしまったら、ウソをついたことになってしまう、というのです。
ところで、私の母親は少なくとも3つウソをついたことがあります。
母は53歳の若さで脳卒中のために亡くなりました。
私は3人兄弟の長男なのですが、母の死後しばらくして、兄弟3人と父とで母の思い出話しをしておりました。
一番下の弟が言いました。「母さんは『お前は一番かわいい。だって末っ子だもの。でも、兄ちゃんたちには秘密だよ』って言ってたっけなあ。」
それを聞いて、真ん中の弟が言いました。
「うそ!母さんは『お前が一番かわいい。だって、真ん中であまり手がかけられずに不憫だったから。でも、兄ちゃんと弟には秘密だよ』って言ってたんだぞ。」
それを聞いて私も負けじと言いました。
「ちがう、ちがう。母さんは『お前が一番かわいい。だって長男だもの。でも、弟たちには秘密だよ』って言ってたんだよ。」
私たちは一瞬絶句し、次の瞬間、全員で爆笑してしまいました。
それは、母はよくもこのような文字通りの子どもだましを言ったものだという滑稽さと、よくもそれを疑わずに信じてきたものだという自分たちの浅はかさが、おかしくてたまらなかったからでした。
そして、私たちの悲しさと寂しさがその爆笑によってしばし癒されたのでした。
ところで、ひとりの子どもに「あなたを1番に愛しているよ」と言ってしまったら、もう一人の子どもには同じことを言ってはいけないものなのでしょうか。
母は尋常小学校しか出ていなかったから、「1番は1つしかない」といった論理的な考えができなかったのかもしれませんが、むしろ、母にとっては理屈などはどうでもよく、「自分の子どもはみんな1番だ」といった、やむにやまれぬ思いがあったのかもしれません。
しかし、最近になって、このような非論理的な考えが、必ずしも間違ってはいないのではないか、と私は思うようになりました。
第一、神様の愛自体が過激なほど感情的です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)、また、「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)と、愛を情熱的に表現される神様は巨大な存在であり、すべての人を個別に愛しても余りあるほどに愛に満ちたお方であるに違いないのです。
神様の愛はすでに人間の論理を超えています。
ですから、神様の前では誰もがナンバーワンでいられるのだろう、と私は考えるのです。
そして母親たちも、無意識的に神様の愛に倣って、どの子どもをも1番に愛そうとするのです。
文献
川端啓之ほか(1995):ライフサイクルからみた発達臨床心理学.ナカニシヤ出
版.
子育てをしている若いお母さんからよく受ける質問です。
「下の子が生まれて手がかかるので、上の子が赤ちゃん返りしちゃって大変なんです。下の子に乱暴することもあるし。それに、淋しそうに一人遊びをしていることもあって、気になります。上も下も平等に愛したいのですが、どちらかを1番に愛すると、もう一人が2番になってしまうでしょ。母親としていたたまれない気持ちになってしまうのです。どうしたらいいのでしょうか。」
子どもの年齢や性格が違えば、お世話に平等に時間をかけられるということはまずないでしょうから、時間的な差は必ず生じます。
上の子とのかかわりの頻度が少なくなったり、「もうお兄(姉)ちゃんでしょう」などと言って急いで自立を促そうとしたりします。
上の子はそれまで両親の関心や愛情を一身に受けていたのに、赤ちゃんにそれを奪われたと思い込み、嫉妬の感情をもつようになります。
そして、赤ちゃんのまねをするかのように、今まで自分でできていたことをやらなくなったり、母親に手伝わせようとしたりします。
また、母親が赤ちゃんの世話をしているときに、母親の注目を引こうとして盛んにいたずらをしたり、赤ちゃんを攻撃したりします。
これが退行現象(赤ちゃん返り)です(文献)。
それは、人は誰でも「愛する人から自分を1番に愛して欲しい」という気持ちをもっていることの証拠でもあります。
そのような注目の要求に応えるためには、限られた時間の中で「あなたを1番に愛しているよ」というメッセージを伝える必要があります。
そのためには、親子2人だけの場面を活用して、ほぼ十分に遊んであげた上で、「あなたを1番に愛しているよ」と言えばいいのです。
とくに、息子1人と娘1人だけの場合は便利です。
「世界一の息子(娘)だよ」という表現も気軽に使えるからです。
そのようなかかわりを続けているうちに、母親の愛情が奪われたわけではないことに気づき、安心感を取り戻して、兄(姉)としての役割を果たそうとするようになっていきます。
しかし、ここに一つ問題があります。
「1番に愛しているよ」ということばを使うことにひどく抵抗を感じるお母さんもいるからです。
ひとりの子どもに「あなたを1番に愛しているよ」と言ってしまったら、他の子は2番、3番になってしまう。
そんなことは許せない。
でも、みんなに「1番に愛しているよ」と言ってしまったら、ウソをついたことになってしまう、というのです。
ところで、私の母親は少なくとも3つウソをついたことがあります。
母は53歳の若さで脳卒中のために亡くなりました。
私は3人兄弟の長男なのですが、母の死後しばらくして、兄弟3人と父とで母の思い出話しをしておりました。
一番下の弟が言いました。「母さんは『お前は一番かわいい。だって末っ子だもの。でも、兄ちゃんたちには秘密だよ』って言ってたっけなあ。」
それを聞いて、真ん中の弟が言いました。
「うそ!母さんは『お前が一番かわいい。だって、真ん中であまり手がかけられずに不憫だったから。でも、兄ちゃんと弟には秘密だよ』って言ってたんだぞ。」
それを聞いて私も負けじと言いました。
「ちがう、ちがう。母さんは『お前が一番かわいい。だって長男だもの。でも、弟たちには秘密だよ』って言ってたんだよ。」
私たちは一瞬絶句し、次の瞬間、全員で爆笑してしまいました。
それは、母はよくもこのような文字通りの子どもだましを言ったものだという滑稽さと、よくもそれを疑わずに信じてきたものだという自分たちの浅はかさが、おかしくてたまらなかったからでした。
そして、私たちの悲しさと寂しさがその爆笑によってしばし癒されたのでした。
ところで、ひとりの子どもに「あなたを1番に愛しているよ」と言ってしまったら、もう一人の子どもには同じことを言ってはいけないものなのでしょうか。
母は尋常小学校しか出ていなかったから、「1番は1つしかない」といった論理的な考えができなかったのかもしれませんが、むしろ、母にとっては理屈などはどうでもよく、「自分の子どもはみんな1番だ」といった、やむにやまれぬ思いがあったのかもしれません。
しかし、最近になって、このような非論理的な考えが、必ずしも間違ってはいないのではないか、と私は思うようになりました。
第一、神様の愛自体が過激なほど感情的です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)、また、「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)と、愛を情熱的に表現される神様は巨大な存在であり、すべての人を個別に愛しても余りあるほどに愛に満ちたお方であるに違いないのです。
神様の愛はすでに人間の論理を超えています。
ですから、神様の前では誰もがナンバーワンでいられるのだろう、と私は考えるのです。
そして母親たちも、無意識的に神様の愛に倣って、どの子どもをも1番に愛そうとするのです。
文献
川端啓之ほか(1995):ライフサイクルからみた発達臨床心理学.ナカニシヤ出
版.
by ybible63
| 2007-04-17 10:53
| ★教育シリーズ(子育て)