2007年 01月 15日
向き合うということ |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
教育シリーズ 第42回
佐竹 真次
「親は子どもと向き合ってほしい」とよく言われますが、「向き合う」ということばは、わかるようでわかりません。
中には親が向き合い過ぎて、子どもが変になるケースもあります。
子どもを名門の学校に進ませ、一流の職業に就けたいと親が強く望み、子どもを叱咤する場合などは、強烈に向き合っていると言えます。
親自身が一流の職業についている場合もあればそうでない場合もあります。
名門の高校に入れと親から言われ続けてきた子どもは、中学校2年生の中盤になると自分の実力でそれが可能か無理かをかなり正確に判断できるようになります。
同様に、一流の職業に就くことに関しては、高等学校2年生の中盤になると判断できるようになります。
無理と判断すると、親をことばで説得できない代わりに、男子は家庭内暴力、非行、家出、引きこもりなどを防衛手段として選択することがあります。
女子はリストカット、摂食障害、家出、性非行(たいていは被害者)などを選択することがあります。
一流の職業でなくても、自分の興味と著しく異なる職業の選択を強要されたときにも、同様のことがよく起こります。
これらの延長線上の現象であるとは思いますが、2006年6月20日に奈良県で起きた高校生の自宅放火事件には震撼させられました。
父親から医師になることを過度に期待され、成績のことで厳しく叱られていたといいます。この重圧から精神的に追い詰められ、「自分の身の回りのものをすべてなくしたい」と感じて異常な破壊衝動に至ったとみられています。
彼は学力がひどく低いわけでもなく、関係者からの評判もすこぶるよかったというのに、残念としか言いようのない事件でした。
家庭でも学校でも何を忘れているのでしょうか。
子どもが志を立てるための語り合いを忘れているのではないでしょうか。
聖書には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)とあります。
子どもの周囲にある人的・物的資源をも用いながら、神は人のうちに働いて志を立てさせてくださるのだと思います。
しかも、それは「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:16)とあります。
「名門」「一流」などということばは神の前では無意味です。
志した学校と職業と生活を通して、どのように「世の光として輝く」のかを語り合うことこそ、「向き合う」という行為の意義なのではないかと、私は考えます。
教育シリーズ 第42回
佐竹 真次
「親は子どもと向き合ってほしい」とよく言われますが、「向き合う」ということばは、わかるようでわかりません。
中には親が向き合い過ぎて、子どもが変になるケースもあります。
子どもを名門の学校に進ませ、一流の職業に就けたいと親が強く望み、子どもを叱咤する場合などは、強烈に向き合っていると言えます。
親自身が一流の職業についている場合もあればそうでない場合もあります。
名門の高校に入れと親から言われ続けてきた子どもは、中学校2年生の中盤になると自分の実力でそれが可能か無理かをかなり正確に判断できるようになります。
同様に、一流の職業に就くことに関しては、高等学校2年生の中盤になると判断できるようになります。
無理と判断すると、親をことばで説得できない代わりに、男子は家庭内暴力、非行、家出、引きこもりなどを防衛手段として選択することがあります。
女子はリストカット、摂食障害、家出、性非行(たいていは被害者)などを選択することがあります。
一流の職業でなくても、自分の興味と著しく異なる職業の選択を強要されたときにも、同様のことがよく起こります。
これらの延長線上の現象であるとは思いますが、2006年6月20日に奈良県で起きた高校生の自宅放火事件には震撼させられました。
父親から医師になることを過度に期待され、成績のことで厳しく叱られていたといいます。この重圧から精神的に追い詰められ、「自分の身の回りのものをすべてなくしたい」と感じて異常な破壊衝動に至ったとみられています。
彼は学力がひどく低いわけでもなく、関係者からの評判もすこぶるよかったというのに、残念としか言いようのない事件でした。
家庭でも学校でも何を忘れているのでしょうか。
子どもが志を立てるための語り合いを忘れているのではないでしょうか。
聖書には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)とあります。
子どもの周囲にある人的・物的資源をも用いながら、神は人のうちに働いて志を立てさせてくださるのだと思います。
しかも、それは「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:16)とあります。
「名門」「一流」などということばは神の前では無意味です。
志した学校と職業と生活を通して、どのように「世の光として輝く」のかを語り合うことこそ、「向き合う」という行為の意義なのではないかと、私は考えます。
by ybible63
| 2007-01-15 09:03
| ★教育シリーズ(子育て)