2006年 04月 13日
教育シリーズ 第32回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
人生の目的
佐竹 真次
北欧のある国に日本人観光客が来ました。
自然の美しい観光地です。
現地の男性がひとり、湖のほとりで魚を釣っていました。
日本人が彼に聞きました。
日本人「ここで何をしているの?」
現地人「見りゃわかるだろ。魚を釣っているんだよ。」
日本人「そんなちんたらやってないで、トロール船をドーンと持ってきて、ご
っそり魚を捕ったらいいじゃないか。」
現地人「そんなにたくさん魚を捕って、どうするんだい。」
日本人「もちろん売るんだよ。それで大金持ちになればいいんだ。」
現地人「そんなにたくさんのお金を、いったいどうするんだい。」
日本人「それで大きなホテルを建ててオーナーになればいいんだ。」
現地人「ホテルのオーナーになって、どうするんだい。」
日本人「そうすれば楽になって時間ができるじゃないか。」
現地人「そんな時間をいったいどうするんだい。」
日本人「のんびりと魚釣りでもすりゃいいじゃないか。」
最後のセリフがオチになっているのですが、ちゃんと落ちましたでしょうか?
発達心理学的支援では短期目標と長期目標を設定します。
たとえば、不登校の児童が保健室に10分間だけ居て帰宅する、などというのは短期目標にあたります。
最終的に、教室での学習に普通に参加できる、などというのは長期目標にあたります。
それと同じように、私たちは人生の目的についても短期の目的と長期の目的を無意識的に設定している場合が多いのではないでしょうか。
たとえば、中学生の多くは希望の高校に入学することを短期の目的にしていると思います。
さらに細分化された短期の目的もあります。
部活の新人戦で満足のいく成績を上げることや、バレンタイン・デーにお目当ての人にチョコレートをあげることなどがそれです。
大企業の社長にまで上りつめることが人生の長期の目的だと考える人がいるとします。
そしてその目的が幸運にも実現したとします。
では、その次に目的となるものは何でしょうか。
もしかしたら、冒頭のたとえ話のような、取るに足らない結末なのかもしれません。
それは突っ走っているときにはなかなか見えにくいもののようです。
しかし、その取るに足らないように見えることが実は本当に大切なことなのかもしれない、とそのたとえ話は暗示しているのかもしれません。
人は人生の長期の目的を真剣に問われたときに、必ず悩みます。
大学の卒業論文がうまく進まずに悩んでいたとき、私はこんな会話を父としたことがあります。
私「あと何億年か経ったら地球は滅亡すると思うのだけれど、そうなったら子
孫だって死に絶えるわけだから、オレが生きていた痕跡なんて何も残らな
いよね。そんな気の遠くなるようなことを考えると、オレなんか生きてい
たっていなくたって、何の違いもないと思えるんだ。卒論が書けなくてこ
んなに苦しいのに、無に等しいオレが何で生きていなくちゃならないんだ
ろう。」
父「大学生ってバカなことを考えるもんだなあ。オレなんか尋常高等小学校しか出ていないけれど、その程度のことならわかるよ。人間が生きるのは、それが掟だからさ。」
私は父のこんな答えを聞いたとたん、「人生ってそんなに単純でいいのかなあ」と思うと同時に、フッと気持ちが楽になったことを覚えています。
そして、「偉い哲学者でもない限り、誰が考えたってこんな答えしか出てこないんだろうなあ」とも思ったのでした。
親は子どもからこのように質問されたとき、かりに自分自身が人生の答えを持っていなくても、「我が子を死なせちゃいけない」との思いから、何らかの楽天的な答えを考え出すものだ、ということが、あとで私自身が親になったときにわかったような気がします。
実存主義のサルトルの本には、「人間は最初は何ものでもない。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである」と書かれてありました(文献)。
つまり、人生の目的はもともとあるのではなく、人が自分でつくるものなのだ、と私は理解しました。
そのためには、すべてにおいて常に自分を方向づけ、厳しく律しなければならないわけで、これは大変なことだと私は思いました。
順風のときならいいけれど、逆境に陥ったときには、うつ病親和性性格の私はきっとやっていけなくなる、と恐れたのでした。
そんなとき、私は次のような聖書のことばに出会いました。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)いったい、全世界を手に入れることよりも尊いことがあるのでしょうか。さらに、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書3:11)とありました。
人は永遠を支配できないけれど、永遠を支配する巨大な何者かが存在するのでしょうか。「存在するのであればそれに賭けた方が得だ。賭けなければ結果はゼロのままだけれど、賭けたらゼロか100だ。賭けた方がはるかに希望が残る」と私は考えました。
最近、自分の子どもからも「人は何のために生きているの?」と聞かれてしまいました。
私は「お父さんが生きている理由なら話せるよ」と言いました。
子どもは「それじゃ、お父さんは何のために生きているの?」と聞きました。
私は「神の栄光を表すためだよ」と答えました。
子どもは「神の栄光を表すって、どういうこと?」と聞きました。
私は「神様と、そして人々と平和を保ち、お互いに喜び合うことだよ」と答えました。
子どもは「喜び合うだけ?」と聞きました。
私は子どもをギュッと抱きしめ、「お父さんにとっては、おまえはかけがえのない喜びだよ」と答えました。
子どもは笑いました。
私にとっては、それが精一杯の答えです。
しかし、このようなやりとりの中で、子どもは生きる目的を肌で学んでいくのだろうと思います。子どもは一般論で質問してきても、実は個別的回答を求めているのです。個別的回答によって、自分の価値を確認したり自尊感情を高めたりするのだと思うのです。
文献
サルトル(伊吹武彦ほか 訳)(1996):実存主義とは何か.人文書院.
人生の目的
佐竹 真次

自然の美しい観光地です。
現地の男性がひとり、湖のほとりで魚を釣っていました。
日本人が彼に聞きました。
日本人「ここで何をしているの?」
現地人「見りゃわかるだろ。魚を釣っているんだよ。」
日本人「そんなちんたらやってないで、トロール船をドーンと持ってきて、ご
っそり魚を捕ったらいいじゃないか。」
現地人「そんなにたくさん魚を捕って、どうするんだい。」
日本人「もちろん売るんだよ。それで大金持ちになればいいんだ。」
現地人「そんなにたくさんのお金を、いったいどうするんだい。」
日本人「それで大きなホテルを建ててオーナーになればいいんだ。」
現地人「ホテルのオーナーになって、どうするんだい。」
日本人「そうすれば楽になって時間ができるじゃないか。」
現地人「そんな時間をいったいどうするんだい。」
日本人「のんびりと魚釣りでもすりゃいいじゃないか。」
最後のセリフがオチになっているのですが、ちゃんと落ちましたでしょうか?
発達心理学的支援では短期目標と長期目標を設定します。
たとえば、不登校の児童が保健室に10分間だけ居て帰宅する、などというのは短期目標にあたります。
最終的に、教室での学習に普通に参加できる、などというのは長期目標にあたります。
それと同じように、私たちは人生の目的についても短期の目的と長期の目的を無意識的に設定している場合が多いのではないでしょうか。
たとえば、中学生の多くは希望の高校に入学することを短期の目的にしていると思います。
さらに細分化された短期の目的もあります。
部活の新人戦で満足のいく成績を上げることや、バレンタイン・デーにお目当ての人にチョコレートをあげることなどがそれです。
大企業の社長にまで上りつめることが人生の長期の目的だと考える人がいるとします。
そしてその目的が幸運にも実現したとします。
では、その次に目的となるものは何でしょうか。
もしかしたら、冒頭のたとえ話のような、取るに足らない結末なのかもしれません。
それは突っ走っているときにはなかなか見えにくいもののようです。
しかし、その取るに足らないように見えることが実は本当に大切なことなのかもしれない、とそのたとえ話は暗示しているのかもしれません。
人は人生の長期の目的を真剣に問われたときに、必ず悩みます。
大学の卒業論文がうまく進まずに悩んでいたとき、私はこんな会話を父としたことがあります。
私「あと何億年か経ったら地球は滅亡すると思うのだけれど、そうなったら子
孫だって死に絶えるわけだから、オレが生きていた痕跡なんて何も残らな
いよね。そんな気の遠くなるようなことを考えると、オレなんか生きてい
たっていなくたって、何の違いもないと思えるんだ。卒論が書けなくてこ
んなに苦しいのに、無に等しいオレが何で生きていなくちゃならないんだ
ろう。」
父「大学生ってバカなことを考えるもんだなあ。オレなんか尋常高等小学校しか出ていないけれど、その程度のことならわかるよ。人間が生きるのは、それが掟だからさ。」
私は父のこんな答えを聞いたとたん、「人生ってそんなに単純でいいのかなあ」と思うと同時に、フッと気持ちが楽になったことを覚えています。
そして、「偉い哲学者でもない限り、誰が考えたってこんな答えしか出てこないんだろうなあ」とも思ったのでした。
親は子どもからこのように質問されたとき、かりに自分自身が人生の答えを持っていなくても、「我が子を死なせちゃいけない」との思いから、何らかの楽天的な答えを考え出すものだ、ということが、あとで私自身が親になったときにわかったような気がします。
実存主義のサルトルの本には、「人間は最初は何ものでもない。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである」と書かれてありました(文献)。
つまり、人生の目的はもともとあるのではなく、人が自分でつくるものなのだ、と私は理解しました。
そのためには、すべてにおいて常に自分を方向づけ、厳しく律しなければならないわけで、これは大変なことだと私は思いました。
順風のときならいいけれど、逆境に陥ったときには、うつ病親和性性格の私はきっとやっていけなくなる、と恐れたのでした。
そんなとき、私は次のような聖書のことばに出会いました。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)いったい、全世界を手に入れることよりも尊いことがあるのでしょうか。さらに、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書3:11)とありました。
人は永遠を支配できないけれど、永遠を支配する巨大な何者かが存在するのでしょうか。「存在するのであればそれに賭けた方が得だ。賭けなければ結果はゼロのままだけれど、賭けたらゼロか100だ。賭けた方がはるかに希望が残る」と私は考えました。
最近、自分の子どもからも「人は何のために生きているの?」と聞かれてしまいました。
私は「お父さんが生きている理由なら話せるよ」と言いました。
子どもは「それじゃ、お父さんは何のために生きているの?」と聞きました。
私は「神の栄光を表すためだよ」と答えました。
子どもは「神の栄光を表すって、どういうこと?」と聞きました。
私は「神様と、そして人々と平和を保ち、お互いに喜び合うことだよ」と答えました。
子どもは「喜び合うだけ?」と聞きました。
私は子どもをギュッと抱きしめ、「お父さんにとっては、おまえはかけがえのない喜びだよ」と答えました。
子どもは笑いました。
私にとっては、それが精一杯の答えです。
しかし、このようなやりとりの中で、子どもは生きる目的を肌で学んでいくのだろうと思います。子どもは一般論で質問してきても、実は個別的回答を求めているのです。個別的回答によって、自分の価値を確認したり自尊感情を高めたりするのだと思うのです。
文献
サルトル(伊吹武彦ほか 訳)(1996):実存主義とは何か.人文書院.

by ybible63
| 2006-04-13 10:12
| ★教育シリーズ(子育て)