2006年 04月 13日
教育シリーズ 第31回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
感謝の本質
佐竹 真次
最近、私は「感謝」についての調査研究を行いました(文献)。
この調査では、大学生100名(男10名、女90名)とその親100名(父41名、母59名)に対し、アンケートの形式で、最近「感謝に思っていること」と「その感謝の相手」ならびに「そのときの年齢」を3件ずつ記載してもらいました。
学生の回答300個と親の回答300個の内容は35種類の感謝項目に分類できました。
各項目の回答数をみると、学生では「励まし」、「援助」、「養育」、「相談」、「物品提供」、「助言」などの、他者から受ける支援に対する感謝、いわば「支援系」の感謝が多く、親では「援助」、「励まし」、「養育」、「手伝い」、「指導」などの支援に対する感謝の他に、「人の存在」、「人の健康」、「仕事」、「家事」、「自分の健康」などの、すでに存在し生活を充実させている好条件に対する感謝、いわば「充実系」の感謝が多かったのです。
学生と親におけるこのような傾向の違いは統計学的にも明らかでした。
同じ感謝の内容でも、その相手については、学生と親とで大きく異なり、学生では「友達」、「先生」などが含まれるのに対して、親ではほとんどが「家族」でした。
また、その内容を感謝した年齢の平均は、当然のことながら、学生においてはばらつきが少ないのですが、親においては過去から現在まで広い幅があることが示されました。
なぜ学生には「支援系」感謝が多く、親には「充実系」感謝が多いのでしょうか。
青年期にある大学生は自我同一性(自分は誰かという問いへの確固とした答え)の確立や将来の職業選択、社会生活の準備等を目指す途上にあり、他者からの励ましや相談にのってもらうことのニーズが非常に大きいと考えられます。
そのため、「支援系」感謝が多く意識されるのかもしれません。
一方、親はそれらのものをすでに獲得し、それらを保護したり維持したり満喫したり発展させたりすることに関心をもつと考えられます。
そのため、「充実系」の感謝が多く意識されるのかもしれません。
とくに、「子どもの存在」や「子どもの健康」についての感謝が多くみられました。
それは子どもに対する親の言い尽くせない愛の表れなのかもしれません。
この調査結果から、人は世代によって感謝の内容の傾向が異なり、若者は他者から受けたものについて感謝し、壮年者はすでに存在しているものについて感謝する傾向があることが示唆されます。
言い換えれば、若者よりも壮年者の方が、何気ない日常の中に感謝のネタを見出すことがうまいとも言えます。
それは、壮年者が、若者よりも多くの苦難や大切な人の死などに直面しているために、普通に生活できたり大切な人が普通に生きていられたりすることが、実は特別に尊いことであることを知っているからなのかもしれません。
また、このことから、感謝とは、個人の主観的な気づきによるものであるとも考えられます。
アンケートの意見欄でも「改めて感謝する心を認識させられた」ということばが多くみられました。
ところで、クリスチャンの弁護士である佐々木満男さんが、講演の中で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という聖書のことばに言及され、「喜び、祈り続けていると、おのずと感謝がわき起こってくるのです」と語られたことがありました。私はその通りだと思いました。
人に「感謝しなさい」と野暮な命令をしても、その人が感謝してくれるはずはありません。
それよりも、まず第一に、その人に対して「喜び」を提供することの方が先決です。
そして第二に、その喜びが他者の心遣いや負担によってもたらされたものであることを本人が知った瞬間に、ほぼ自動的に感謝の気持ちがわき起こるのです。
聖書では「絶えず祈りなさい」と言います。
祈りは通常、願いのためになされると考えられがちですが、むしろ祈りの主要な目的は、これまで自分のために神様が図ってくださった便宜、他者が担ってくれた負担や苦労を思い出し、思い巡らすことなのではないか、と私は考えます。
それでは、喜びはどのようにしてもたらされるのでしょうか。
息子が11ヵ月になりヨチヨチ歩きをし、ようやく「ママ」や「パパ」と言うようになったころでした。友人宅を一家で訪問したある日、私たちが話に夢中になっている間に階段付近で「ドーン」という大きな音が聞こえました。
あわてて見に行くと息子が階段の下に倒れていたのです。
ビックリした表情でしたが、抱き上げると少し泣いただけで、何事もなく終わりました。
ところが、その夜、息子が突然吐き出し吐き続けたのです。
病院に運ぶと、医師は問診の後に息子の脳のCT画像を撮影し、右前頭葉に出血の影が写っていると言いました。
一晩安静にして様子を見、明朝手術をするかどうかを決めることにしました。
悲嘆にくれて祈りました。
朝になり、息子は思ったより元気にベッドの上で動いていました。
再度CTを撮ってもらいました。
医師が驚いて言いました。
「あれだけはっきりと写っていた影が消えています。奇跡とは思いたくないが、そうかもしれない」と。
私は息子が助かったことを妻と一緒に喜ぶとともに、この日以来、祈りは聞かれるものだということを疑わなくなりました。
このように、危険が安全に変わったとき、不足や制限が充足したとき、不安や恐れが平安に変わったとき、苦痛が無痛に変わったとき、困難が容易になったとき、未解決が解決したとき、未達成が達成できたとき、つまらないと思っていたことが価値あるものであることに気づいたとき、不自由が自由になったとき、そして、罪が赦されたときのように、絶望が希望に変化したときに、喜びは起こります。
逆に、初めの要求水準の設定が高すぎると、喜びは起こりにくいのです。
一方、介在した他者の負担や苦労に対する気づきはどのようにしてもたらされるのでしょうか。赤ちゃんは喜びを表現することができますが、感謝を表現することはできません。
研究によると、幼児が「ありがとう」ということばを初めて自発するのは2歳1ヵ月頃であることが明らかにされています。
この年齢はやっとイメージが頭の中に生起し、ものごとを想像できるようになる時期です。
それで、他者の負担や苦労をも想像したり記憶したりできるようになるのです。
このように、介在した他者の負担や苦労に対する気づきは想像力によってもたらされるのだと、私は考えます。
ですから、人間は何年後になってからでもそれを思い出し、想像力によって気づき、感謝することができるのです。
なかなか感謝の気持ちが起こりにくい日常であればなおさら、このように想像力を働かせることが大切なのかもしれません。
ところで、「臨床心理学的に癒された状態には『心からの感謝の気持ち』の表明が伴うことが多い」と言った著名な心理臨床家がいました。
私はその話を聞いたときに妙に合点がいったのでした。
聖書には「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)と書かれています。癒しや平安は単独に起こるものではなく、感謝とペアになっているのではないか、と私には思われるのです。
文献
佐竹真次(2004):人は何について感謝しているか-大学生とその親がいだく感
謝の内容と相手-.山形保健医療研究,7,1-8.
感謝の本質
佐竹 真次
最近、私は「感謝」についての調査研究を行いました(文献)。
この調査では、大学生100名(男10名、女90名)とその親100名(父41名、母59名)に対し、アンケートの形式で、最近「感謝に思っていること」と「その感謝の相手」ならびに「そのときの年齢」を3件ずつ記載してもらいました。
学生の回答300個と親の回答300個の内容は35種類の感謝項目に分類できました。
各項目の回答数をみると、学生では「励まし」、「援助」、「養育」、「相談」、「物品提供」、「助言」などの、他者から受ける支援に対する感謝、いわば「支援系」の感謝が多く、親では「援助」、「励まし」、「養育」、「手伝い」、「指導」などの支援に対する感謝の他に、「人の存在」、「人の健康」、「仕事」、「家事」、「自分の健康」などの、すでに存在し生活を充実させている好条件に対する感謝、いわば「充実系」の感謝が多かったのです。
学生と親におけるこのような傾向の違いは統計学的にも明らかでした。
同じ感謝の内容でも、その相手については、学生と親とで大きく異なり、学生では「友達」、「先生」などが含まれるのに対して、親ではほとんどが「家族」でした。
また、その内容を感謝した年齢の平均は、当然のことながら、学生においてはばらつきが少ないのですが、親においては過去から現在まで広い幅があることが示されました。
なぜ学生には「支援系」感謝が多く、親には「充実系」感謝が多いのでしょうか。
青年期にある大学生は自我同一性(自分は誰かという問いへの確固とした答え)の確立や将来の職業選択、社会生活の準備等を目指す途上にあり、他者からの励ましや相談にのってもらうことのニーズが非常に大きいと考えられます。
そのため、「支援系」感謝が多く意識されるのかもしれません。
一方、親はそれらのものをすでに獲得し、それらを保護したり維持したり満喫したり発展させたりすることに関心をもつと考えられます。
そのため、「充実系」の感謝が多く意識されるのかもしれません。
とくに、「子どもの存在」や「子どもの健康」についての感謝が多くみられました。
それは子どもに対する親の言い尽くせない愛の表れなのかもしれません。
この調査結果から、人は世代によって感謝の内容の傾向が異なり、若者は他者から受けたものについて感謝し、壮年者はすでに存在しているものについて感謝する傾向があることが示唆されます。
言い換えれば、若者よりも壮年者の方が、何気ない日常の中に感謝のネタを見出すことがうまいとも言えます。
それは、壮年者が、若者よりも多くの苦難や大切な人の死などに直面しているために、普通に生活できたり大切な人が普通に生きていられたりすることが、実は特別に尊いことであることを知っているからなのかもしれません。
また、このことから、感謝とは、個人の主観的な気づきによるものであるとも考えられます。
アンケートの意見欄でも「改めて感謝する心を認識させられた」ということばが多くみられました。
ところで、クリスチャンの弁護士である佐々木満男さんが、講演の中で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18)という聖書のことばに言及され、「喜び、祈り続けていると、おのずと感謝がわき起こってくるのです」と語られたことがありました。私はその通りだと思いました。
人に「感謝しなさい」と野暮な命令をしても、その人が感謝してくれるはずはありません。
それよりも、まず第一に、その人に対して「喜び」を提供することの方が先決です。
そして第二に、その喜びが他者の心遣いや負担によってもたらされたものであることを本人が知った瞬間に、ほぼ自動的に感謝の気持ちがわき起こるのです。
聖書では「絶えず祈りなさい」と言います。
祈りは通常、願いのためになされると考えられがちですが、むしろ祈りの主要な目的は、これまで自分のために神様が図ってくださった便宜、他者が担ってくれた負担や苦労を思い出し、思い巡らすことなのではないか、と私は考えます。
それでは、喜びはどのようにしてもたらされるのでしょうか。
息子が11ヵ月になりヨチヨチ歩きをし、ようやく「ママ」や「パパ」と言うようになったころでした。友人宅を一家で訪問したある日、私たちが話に夢中になっている間に階段付近で「ドーン」という大きな音が聞こえました。
あわてて見に行くと息子が階段の下に倒れていたのです。
ビックリした表情でしたが、抱き上げると少し泣いただけで、何事もなく終わりました。
ところが、その夜、息子が突然吐き出し吐き続けたのです。
病院に運ぶと、医師は問診の後に息子の脳のCT画像を撮影し、右前頭葉に出血の影が写っていると言いました。
一晩安静にして様子を見、明朝手術をするかどうかを決めることにしました。
悲嘆にくれて祈りました。
朝になり、息子は思ったより元気にベッドの上で動いていました。
再度CTを撮ってもらいました。
医師が驚いて言いました。
「あれだけはっきりと写っていた影が消えています。奇跡とは思いたくないが、そうかもしれない」と。
私は息子が助かったことを妻と一緒に喜ぶとともに、この日以来、祈りは聞かれるものだということを疑わなくなりました。
このように、危険が安全に変わったとき、不足や制限が充足したとき、不安や恐れが平安に変わったとき、苦痛が無痛に変わったとき、困難が容易になったとき、未解決が解決したとき、未達成が達成できたとき、つまらないと思っていたことが価値あるものであることに気づいたとき、不自由が自由になったとき、そして、罪が赦されたときのように、絶望が希望に変化したときに、喜びは起こります。
逆に、初めの要求水準の設定が高すぎると、喜びは起こりにくいのです。
一方、介在した他者の負担や苦労に対する気づきはどのようにしてもたらされるのでしょうか。赤ちゃんは喜びを表現することができますが、感謝を表現することはできません。
研究によると、幼児が「ありがとう」ということばを初めて自発するのは2歳1ヵ月頃であることが明らかにされています。
この年齢はやっとイメージが頭の中に生起し、ものごとを想像できるようになる時期です。
それで、他者の負担や苦労をも想像したり記憶したりできるようになるのです。
このように、介在した他者の負担や苦労に対する気づきは想像力によってもたらされるのだと、私は考えます。
ですから、人間は何年後になってからでもそれを思い出し、想像力によって気づき、感謝することができるのです。
なかなか感謝の気持ちが起こりにくい日常であればなおさら、このように想像力を働かせることが大切なのかもしれません。
ところで、「臨床心理学的に癒された状態には『心からの感謝の気持ち』の表明が伴うことが多い」と言った著名な心理臨床家がいました。
私はその話を聞いたときに妙に合点がいったのでした。
聖書には「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)と書かれています。癒しや平安は単独に起こるものではなく、感謝とペアになっているのではないか、と私には思われるのです。
文献
佐竹真次(2004):人は何について感謝しているか-大学生とその親がいだく感
謝の内容と相手-.山形保健医療研究,7,1-8.
by ybible63
| 2006-04-13 10:07
| ★教育シリーズ(子育て)