2006年 04月 13日
教育シリーズ 第23回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
すべてのことに時がある 佐竹 真次
私は数年前からマジックを始めました。
「ユーモアは心地よい裏切りである」ということばを別の節で引用しましたが、マジックも心地よい裏切りの部類に入ります。
常識では起こり得ないような視覚的現象を、トリックを使って巧妙に「演出」してみせることがマジックの仕組みです。
マジックはけっこう誠実な営みです。
なぜなら、それがウソであること、つまり冗談であることを初めから観衆に断っているからです。
それに対して、詐欺やペテンや占いなどは不誠実な営みです。
なぜなら、それがウソであるにもかかわらずそれをちゃんと断らず、まるで真実であるかのように思わせて人をだますからです。
マジックにはいくつかの種類があります。
大がかりなイリュージョンや中規模のステージ・マジック、微妙な不思議さを演出するテーブル・マジック、観衆の心を温かくするようなユーモア・マジックなどです。
イリュージョンやステージ・マジックでは観衆から驚きを引き出せます。
テーブル・マジックでは観衆の知的好奇心をくすぐります。
そして、ユーモア・マジックでは観衆から笑いを引き出します。
これらは必ずしもはっきりと分かれているわけではなく、微妙に融合している場合も多いのです。
私自身は演芸的なユーモア・マジックがもっとも好きです。
人との温かで親密なよい関係を作ってくれるからです。
それでは、道具を使わないでできる手軽なマジックをひとつご紹介しましょう。
観衆が何人いてもできるマジックです。
観衆の反応をよく見て間を考えながら、以下のセリフをゆっくりと話してください。
「1から10までの数字のうち、どれか一つを頭の中に思い浮かべてください。(間)思い浮かべましたね」
「それでは、その数字に1を足してください。(間)足しましたね」
「次に、その答えに2を掛けてください。(間)掛けましたね」
「その答えに4を足してください。(間)足しましたね」
「今度は、その答えを2で割ってください。(間)割りましたね」
「次に、その答えから、最初に思い浮かべた数字を引いてください。(間)引きましたね。それでは、今みなさんの頭の中にある数字を私が当ててご覧に入れます」
「その数字は3です!」
ここで観衆からは「おー」という歓声が上がるでしょう。
これで観衆から驚きを引き出せました。
これに続けて「3以外の方がいらしたら、その方は単純に計算間違いをなさった方です」と付け加えると、観衆から笑いを引き出すことができます。
そしてさりげなく、「お付き合いいただき、ありがとうございました」とあいさつします。
観衆は拍手します。
拍手を受けたら嬉しそうな顔をしておじぎをします。
それがマジシャンの作法です。
「なぜマジックを始めたのですか?」と聞かれることがよくあります。
数年前、私はある中学校にカウンセリングに行っていました。
相談に来た生徒たちの中に、わずかしか日本語のできないアジア系の国から来た1年生の生徒がいました。
彼の母親は彼を連れて祖国から日本にお嫁に来ていました。
父親は長距離トラックの運転手で、週4日は家に帰らず、母親は隣町の工場にパートで勤めに出ていました。
彼には1歳の弟がおり、日中は父親の両親の元に預かってもらい、夕方と休日は彼が面倒を見ていたのです。
彼は背が小さく日本語がよく話せないために、からかいやいじめの対象になることが頻繁にありました。
担任は彼のことを心にかけてくれましたが、教室で展開される授業はよくわからないために常に緊張し、また、特別仲のよい友達もいないままに孤独と不安を感じ続けていました。
このような毎日の中で彼の息抜きになっていたのは、保健室での養護教諭との辞書やイラストを用いた筆談と週1回の祖国人留学生ボランティアとのおしゃべりでした。
その中学校に3学期から配属された私のもとに、担任の勧めで彼がはにかみながら現れたのです。
彼は相談室にオアシスを期待しているのではないかと、私には思えました。
しかし、あいさつ程度はできても、少し込み入った話になるとことばがよく通じません。
筆談で会話しても今ひとつ盛り上がりません。
温かいムードを壊したくない私は「○○君、何が好き?」と聞いてみました。彼は「マジック、好き」と答えました。私は「やったー」と思いました。
たまたま3種類のマジックの道具をカバンに入れていたのです。
「500円玉の瞬間移動」「相手が選んだ1枚のカードを正確に引き出せるトランプ」「14種類の絵の中から相手が思った絵を当てるマジック」でした。
これらは人に見せる機会もなく、何年間も無意味に持ち歩いていた物でした。
それを彼に披露したら、彼は歓声を上げて驚いたり喜んだりしてくれます。彼は「教えて」と言うので、私はやり方を惜しみなく教えました。
そうすると、彼はすぐにそれを覚えて、私よりも上手にやって見せてくれるのです。
私はそれを大いにほめました。
そんなことをしていると、約束の1時間があっという間に過ぎてしまいました。
あとで担任の先生が「彼のあんなに嬉しそうな笑顔を見たのは初めてです」と教えてくれました。
マジックの道具がこんなときに役立つとは、私自身がびっくりしてしまいました。
次の日から、私は彼のために新しいネタ探しをするようになりました。
とにかく、2週間後の面接のときまでに新ネタを2つ3つ用意しておかなくてはなりません。
近くのスーパーやデパートの玩具売場、玩具専門店にあるネタはすべて買いました。
余暇のほとんどはマジックの練習時間になりました。
家族に見せると初めは喜びましたが、だんだん目が肥えてきて、かわいくない批評家になりました。
2週間はあっという間に過ぎます。
地域ではネタが尽きてしまい、都会に出張したときは必ずマジックショップに寄るようになりました。通信販売も利用しました。
こうして、彼とは2年間で40回ほど面接しましたが、おかげで私は彼と一緒に100種類以上のマジックをマスターさせてもらいました。
この2年間のうちに、彼は徐々に日本語の力を身につけました。
また、体格がみるみるよくなり、3年生のはじめには身長がクラスで1番高くなりました。
それに伴って、彼はいじめられることがほとんどなくなってきました。3年生の2学期には「自分は日本と祖国との架け橋になりたい」と言い、3学期には高校を受験して合格しました。
彼とのカウンセリングは通常のカウンセリングではありません。
専門家からは批判されるかもしれません。
しかし、それは彼の存在感と自尊感情(注)を支えるための支持的カウンセリングの一種であったと、私は思います。
しかも、ことばではなくマジックを媒介として気持ちを交流しあいながら支えるカウンセリングでした。
彼の場合のように、問題によってはジタバタしないでじっと耐えていれば時が解決してくれるものもあります。
大江健三郎氏の「『自分の木』の下で」(文献)という本の中で、「取り返しのつかないことをしそうになったらどうすればよいか」という問いに対して、大江氏は「ある一定の時間、待つこと」であると答えています。
特別なことをするのではなく、先が見えなくても、やるべきことをしながら待っていると、自然に状況が変化して問題が解決しやすくなることもあるといいます。
待つこと、すなわち忍耐することは、神様が与えてくださった仕事の一つなのかもしれません。そして、その仕事のあとには必ず素晴らしい結果があるのです。聖書にはこう書かれています。「私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:10-11)
注
自尊感情(セルフ・エスティーム)とは、「自分自身のかけがえのない価値を知ること」「自分自身を大切にする気持ち」とされますが、人間は弱い者ですから、「自分が自分自身を尊いと思う」だけでは長続きしません。信頼できる他者からの無条件の肯定的な評価がなければ、心のエネルギーが欠乏してしまいます。ですから、自尊感情の中核には「自分が信頼する他者から尊ばれている、大切にされているという実感」がどうしても必要であると、私は考えます。
文献
大江健三郎(2001):「自分の木」の下で.朝日新聞社.
すべてのことに時がある 佐竹 真次
私は数年前からマジックを始めました。
「ユーモアは心地よい裏切りである」ということばを別の節で引用しましたが、マジックも心地よい裏切りの部類に入ります。
常識では起こり得ないような視覚的現象を、トリックを使って巧妙に「演出」してみせることがマジックの仕組みです。
マジックはけっこう誠実な営みです。
なぜなら、それがウソであること、つまり冗談であることを初めから観衆に断っているからです。
それに対して、詐欺やペテンや占いなどは不誠実な営みです。
なぜなら、それがウソであるにもかかわらずそれをちゃんと断らず、まるで真実であるかのように思わせて人をだますからです。
マジックにはいくつかの種類があります。
大がかりなイリュージョンや中規模のステージ・マジック、微妙な不思議さを演出するテーブル・マジック、観衆の心を温かくするようなユーモア・マジックなどです。
イリュージョンやステージ・マジックでは観衆から驚きを引き出せます。
テーブル・マジックでは観衆の知的好奇心をくすぐります。
そして、ユーモア・マジックでは観衆から笑いを引き出します。
これらは必ずしもはっきりと分かれているわけではなく、微妙に融合している場合も多いのです。
私自身は演芸的なユーモア・マジックがもっとも好きです。
人との温かで親密なよい関係を作ってくれるからです。
それでは、道具を使わないでできる手軽なマジックをひとつご紹介しましょう。
観衆が何人いてもできるマジックです。
観衆の反応をよく見て間を考えながら、以下のセリフをゆっくりと話してください。
「1から10までの数字のうち、どれか一つを頭の中に思い浮かべてください。(間)思い浮かべましたね」
「それでは、その数字に1を足してください。(間)足しましたね」
「次に、その答えに2を掛けてください。(間)掛けましたね」
「その答えに4を足してください。(間)足しましたね」
「今度は、その答えを2で割ってください。(間)割りましたね」
「次に、その答えから、最初に思い浮かべた数字を引いてください。(間)引きましたね。それでは、今みなさんの頭の中にある数字を私が当ててご覧に入れます」
「その数字は3です!」
ここで観衆からは「おー」という歓声が上がるでしょう。
これで観衆から驚きを引き出せました。
これに続けて「3以外の方がいらしたら、その方は単純に計算間違いをなさった方です」と付け加えると、観衆から笑いを引き出すことができます。
そしてさりげなく、「お付き合いいただき、ありがとうございました」とあいさつします。
観衆は拍手します。
拍手を受けたら嬉しそうな顔をしておじぎをします。
それがマジシャンの作法です。
「なぜマジックを始めたのですか?」と聞かれることがよくあります。
数年前、私はある中学校にカウンセリングに行っていました。
相談に来た生徒たちの中に、わずかしか日本語のできないアジア系の国から来た1年生の生徒がいました。
彼の母親は彼を連れて祖国から日本にお嫁に来ていました。
父親は長距離トラックの運転手で、週4日は家に帰らず、母親は隣町の工場にパートで勤めに出ていました。
彼には1歳の弟がおり、日中は父親の両親の元に預かってもらい、夕方と休日は彼が面倒を見ていたのです。
彼は背が小さく日本語がよく話せないために、からかいやいじめの対象になることが頻繁にありました。
担任は彼のことを心にかけてくれましたが、教室で展開される授業はよくわからないために常に緊張し、また、特別仲のよい友達もいないままに孤独と不安を感じ続けていました。
このような毎日の中で彼の息抜きになっていたのは、保健室での養護教諭との辞書やイラストを用いた筆談と週1回の祖国人留学生ボランティアとのおしゃべりでした。
その中学校に3学期から配属された私のもとに、担任の勧めで彼がはにかみながら現れたのです。
彼は相談室にオアシスを期待しているのではないかと、私には思えました。
しかし、あいさつ程度はできても、少し込み入った話になるとことばがよく通じません。
筆談で会話しても今ひとつ盛り上がりません。
温かいムードを壊したくない私は「○○君、何が好き?」と聞いてみました。彼は「マジック、好き」と答えました。私は「やったー」と思いました。
たまたま3種類のマジックの道具をカバンに入れていたのです。
「500円玉の瞬間移動」「相手が選んだ1枚のカードを正確に引き出せるトランプ」「14種類の絵の中から相手が思った絵を当てるマジック」でした。
これらは人に見せる機会もなく、何年間も無意味に持ち歩いていた物でした。
それを彼に披露したら、彼は歓声を上げて驚いたり喜んだりしてくれます。彼は「教えて」と言うので、私はやり方を惜しみなく教えました。
そうすると、彼はすぐにそれを覚えて、私よりも上手にやって見せてくれるのです。
私はそれを大いにほめました。
そんなことをしていると、約束の1時間があっという間に過ぎてしまいました。
あとで担任の先生が「彼のあんなに嬉しそうな笑顔を見たのは初めてです」と教えてくれました。
マジックの道具がこんなときに役立つとは、私自身がびっくりしてしまいました。
次の日から、私は彼のために新しいネタ探しをするようになりました。
とにかく、2週間後の面接のときまでに新ネタを2つ3つ用意しておかなくてはなりません。
近くのスーパーやデパートの玩具売場、玩具専門店にあるネタはすべて買いました。
余暇のほとんどはマジックの練習時間になりました。
家族に見せると初めは喜びましたが、だんだん目が肥えてきて、かわいくない批評家になりました。
2週間はあっという間に過ぎます。
地域ではネタが尽きてしまい、都会に出張したときは必ずマジックショップに寄るようになりました。通信販売も利用しました。
こうして、彼とは2年間で40回ほど面接しましたが、おかげで私は彼と一緒に100種類以上のマジックをマスターさせてもらいました。
この2年間のうちに、彼は徐々に日本語の力を身につけました。
また、体格がみるみるよくなり、3年生のはじめには身長がクラスで1番高くなりました。
それに伴って、彼はいじめられることがほとんどなくなってきました。3年生の2学期には「自分は日本と祖国との架け橋になりたい」と言い、3学期には高校を受験して合格しました。
彼とのカウンセリングは通常のカウンセリングではありません。
専門家からは批判されるかもしれません。
しかし、それは彼の存在感と自尊感情(注)を支えるための支持的カウンセリングの一種であったと、私は思います。
しかも、ことばではなくマジックを媒介として気持ちを交流しあいながら支えるカウンセリングでした。
彼の場合のように、問題によってはジタバタしないでじっと耐えていれば時が解決してくれるものもあります。
大江健三郎氏の「『自分の木』の下で」(文献)という本の中で、「取り返しのつかないことをしそうになったらどうすればよいか」という問いに対して、大江氏は「ある一定の時間、待つこと」であると答えています。
特別なことをするのではなく、先が見えなくても、やるべきことをしながら待っていると、自然に状況が変化して問題が解決しやすくなることもあるといいます。
待つこと、すなわち忍耐することは、神様が与えてくださった仕事の一つなのかもしれません。そして、その仕事のあとには必ず素晴らしい結果があるのです。聖書にはこう書かれています。「私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3:10-11)
注
自尊感情(セルフ・エスティーム)とは、「自分自身のかけがえのない価値を知ること」「自分自身を大切にする気持ち」とされますが、人間は弱い者ですから、「自分が自分自身を尊いと思う」だけでは長続きしません。信頼できる他者からの無条件の肯定的な評価がなければ、心のエネルギーが欠乏してしまいます。ですから、自尊感情の中核には「自分が信頼する他者から尊ばれている、大切にされているという実感」がどうしても必要であると、私は考えます。
文献
大江健三郎(2001):「自分の木」の下で.朝日新聞社.
by ybible63
| 2006-04-13 09:31
| ★教育シリーズ(子育て)