2006年 04月 13日
教育シリーズ 第21回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
ユーモアいっぱいの子どもに 佐竹 真次
「佐竹さんは子育てで何を一番重視していますか?」と聞かれることがあります。
子どもの反応を見ていて私が一番喜んでやるのは、子どもが冗談やユーモアを表現したときです。
先日、中学生の息子が「お父さん。ぼくは悩みを聞いてくれる親友が一人もいないんだ」と言いました。
私は「そうかー。ところで、悩み、あるの?」と聞きました。
息子が答えました。「そういえば、悩み、ないねー。」
これは無意識のユーモアかもしれませんが、私はネタ帳にしっかり記録しました。
家族の会話、とくに子どもとの会話はけっこうユーモア作品になっているときがあります。
家族の会話は、いわばユーモア作品の宝の山です。
手前味噌のようで恐縮ですが、寝る前の息子と毎晩のようになぞかけをします。
私が「お母さんとかけて何ととく?」と聞きます。
息子は「ミシンの糸とときます」と答えました。
私が「そのこころは?」と聞きます。
息子は答えました。「ときどき切れるでしょう。」
もう一題。私が「桜とかけて何ととく?」と聞きます。
息子は「お父さんの人生とときます」と答えました。
私が「そのこころは?」と聞きます。
息子は答えました。「お先サックラでしょう。」うまく逃げられました。
これでは「真っ暗」なのか「桜のように明るい見通し」なのかわかりません。
ついでにもう一題。私が「新聞とかけて何ととく?」と聞きます。
息子は「線路の上に積もった雪とときます」と答えました。
私が「そのこころは?」と聞きます。
息子は答えました。「どちらもキシャがかくでしょう。」
山形は雪国なのでそういう発想が出てきやすいのかもしれません。
「記者が書く」と「汽車がかく」をかけたのです。
私の中学校時代のあだ名は「ムッツリおとこ」でした。
実に不名誉なあだ名でしたが、クラスメイトたちは私をそのように呼ぶことを大変気に入っていたのでした。
そのころの私は冗談を楽しもうという感覚が乏しく、気の効いた話題を見つけようとか、人の話す冗談を笑ってあげようといった気持ちがほとんどありませんでした。
しかし、そのあだ名には参りました。
と同時に、もし将来自分に子どもが与えられたら、「ムッツリおとこ」とだけは言われない子どもに育てよう、と決心したのでした。
死生学の権威であるアルフォンス・デーケン神父は「ユーモアは愛の実際的表現である」そして「ユーモアとは、~にもかかわらず笑うこと」と言っています。
「苦しいけれど、とりあえず笑ってみよう。
ちょっと光が見えてくるかもしれないから」とでも言い換えることができるかもしれません。
ホスピス医療の権威であるクリスチャンの柏木哲夫先生は、ユーモアこそが打つ手の少なくなってしまった終末期の患者さんの心を癒すことができると強調されます。
柏木先生の本の中にこんな話があります。
ある余命わずかの壮年男性の患者さんが、「先生、私はこういう澄んだ青空を見ていると気持ちがとても落ち着くんですよ」と言ったそうです。
先生は持っていた四角いメモ用紙の真ん中に大きく「空」と書き、四隅を切り取って見せ、「こんな感じですか?」と言ってそれを渡したそうです。
患者さんは、「『澄み(隅)切った空』ですね」と言って大変喜んだそうです。
その後、間もなくして患者さんは亡くなりました。
よいご主人でしたから奥様は悲嘆に暮れていたそうですが、病院で開いた1年後の遺族会に、奥様がその紙を額に入れて持ってこられてこう話してくれたそうです。
「これはうちの家宝なんです。家族が悲しみに襲われるたびに、『お父さんはこれを見て喜んだっけね』と家族みんなで話し合うんです。
そうすると悲しみが不思議と癒されるんです。」(文献)
「ユーモアの原点は、心地よい裏切りである」と金城学院大学の森下伸也先生は言っています(文献)。
ある中学校の生徒のアンケート結果に、「自分は冗談のつもりで言ったことに対して、親がムキになって批判するので嫌になってしまう」という回答がありました。
親がこのままだと、この中学生は家で話をしなくなってしまい、ストレスをため込んでいくかもしれません。
ユーモアは聴き手が育てるものなのだとつくづく感じさせられます。
親自身がよい意味での遊び心をもって子どもの話を聞けたら幸いですね。
人を傷つけない、むしろ嬉しい気持ちにさせる「心地よい裏切り」の領域を、私は大切にしていきたいと思っています。
聖書の中でも、イエス様はそのような「心地よい裏切り」をときどき行われます。
たとえば、つぎのような箇所です。
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』」(マタイ18:1-4)
イエス様は、ユーモアを用いて真理を逆説的に語られることも多かったようです。
だから、インパクトがあり、またわかりやすかったのでしょう。
そして、多くの民衆に受け入れられていきました。
しかし、なかにはそのメッセージを「わかりたがらない」権威者たちや学者たちや金持ちたちもいたのです。
それでイエス様は、たびたびこう叫ばれたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
文献
柏木哲夫(2001):癒しのユーモア.三輪書店.
森下伸也(2003):もっと笑うためのユーモア学入門.新曜社.
ユーモアいっぱいの子どもに 佐竹 真次
「佐竹さんは子育てで何を一番重視していますか?」と聞かれることがあります。
子どもの反応を見ていて私が一番喜んでやるのは、子どもが冗談やユーモアを表現したときです。
先日、中学生の息子が「お父さん。ぼくは悩みを聞いてくれる親友が一人もいないんだ」と言いました。
私は「そうかー。ところで、悩み、あるの?」と聞きました。
息子が答えました。「そういえば、悩み、ないねー。」
これは無意識のユーモアかもしれませんが、私はネタ帳にしっかり記録しました。
家族の会話、とくに子どもとの会話はけっこうユーモア作品になっているときがあります。
家族の会話は、いわばユーモア作品の宝の山です。
手前味噌のようで恐縮ですが、寝る前の息子と毎晩のようになぞかけをします。
私が「お母さんとかけて何ととく?」と聞きます。
息子は「ミシンの糸とときます」と答えました。
私が「そのこころは?」と聞きます。
息子は答えました。「ときどき切れるでしょう。」
もう一題。私が「桜とかけて何ととく?」と聞きます。
息子は「お父さんの人生とときます」と答えました。
私が「そのこころは?」と聞きます。
息子は答えました。「お先サックラでしょう。」うまく逃げられました。
これでは「真っ暗」なのか「桜のように明るい見通し」なのかわかりません。
ついでにもう一題。私が「新聞とかけて何ととく?」と聞きます。
息子は「線路の上に積もった雪とときます」と答えました。
私が「そのこころは?」と聞きます。
息子は答えました。「どちらもキシャがかくでしょう。」
山形は雪国なのでそういう発想が出てきやすいのかもしれません。
「記者が書く」と「汽車がかく」をかけたのです。
私の中学校時代のあだ名は「ムッツリおとこ」でした。
実に不名誉なあだ名でしたが、クラスメイトたちは私をそのように呼ぶことを大変気に入っていたのでした。
そのころの私は冗談を楽しもうという感覚が乏しく、気の効いた話題を見つけようとか、人の話す冗談を笑ってあげようといった気持ちがほとんどありませんでした。
しかし、そのあだ名には参りました。
と同時に、もし将来自分に子どもが与えられたら、「ムッツリおとこ」とだけは言われない子どもに育てよう、と決心したのでした。
死生学の権威であるアルフォンス・デーケン神父は「ユーモアは愛の実際的表現である」そして「ユーモアとは、~にもかかわらず笑うこと」と言っています。
「苦しいけれど、とりあえず笑ってみよう。
ちょっと光が見えてくるかもしれないから」とでも言い換えることができるかもしれません。
ホスピス医療の権威であるクリスチャンの柏木哲夫先生は、ユーモアこそが打つ手の少なくなってしまった終末期の患者さんの心を癒すことができると強調されます。
柏木先生の本の中にこんな話があります。
ある余命わずかの壮年男性の患者さんが、「先生、私はこういう澄んだ青空を見ていると気持ちがとても落ち着くんですよ」と言ったそうです。
先生は持っていた四角いメモ用紙の真ん中に大きく「空」と書き、四隅を切り取って見せ、「こんな感じですか?」と言ってそれを渡したそうです。
患者さんは、「『澄み(隅)切った空』ですね」と言って大変喜んだそうです。
その後、間もなくして患者さんは亡くなりました。
よいご主人でしたから奥様は悲嘆に暮れていたそうですが、病院で開いた1年後の遺族会に、奥様がその紙を額に入れて持ってこられてこう話してくれたそうです。
「これはうちの家宝なんです。家族が悲しみに襲われるたびに、『お父さんはこれを見て喜んだっけね』と家族みんなで話し合うんです。
そうすると悲しみが不思議と癒されるんです。」(文献)
「ユーモアの原点は、心地よい裏切りである」と金城学院大学の森下伸也先生は言っています(文献)。
ある中学校の生徒のアンケート結果に、「自分は冗談のつもりで言ったことに対して、親がムキになって批判するので嫌になってしまう」という回答がありました。
親がこのままだと、この中学生は家で話をしなくなってしまい、ストレスをため込んでいくかもしれません。
ユーモアは聴き手が育てるものなのだとつくづく感じさせられます。
親自身がよい意味での遊び心をもって子どもの話を聞けたら幸いですね。
人を傷つけない、むしろ嬉しい気持ちにさせる「心地よい裏切り」の領域を、私は大切にしていきたいと思っています。
聖書の中でも、イエス様はそのような「心地よい裏切り」をときどき行われます。
たとえば、つぎのような箇所です。
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』」(マタイ18:1-4)
イエス様は、ユーモアを用いて真理を逆説的に語られることも多かったようです。
だから、インパクトがあり、またわかりやすかったのでしょう。
そして、多くの民衆に受け入れられていきました。
しかし、なかにはそのメッセージを「わかりたがらない」権威者たちや学者たちや金持ちたちもいたのです。
それでイエス様は、たびたびこう叫ばれたのです。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
文献
柏木哲夫(2001):癒しのユーモア.三輪書店.
森下伸也(2003):もっと笑うためのユーモア学入門.新曜社.
by ybible63
| 2006-04-13 09:16
| ★教育シリーズ(子育て)