2006年 03月 22日
教育シリーズ 第18 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
聴くことの戸惑い 佐竹 真次
人の話を「傾聴」するには、相手の発言の末尾でうなずくことや、相手の発言をときどき「繰り返す」ことが効果的であると、他節に書きました。
話が途切れたときや、何と返事をすればいいのかわからないときなどに、相手の話の一部を繰り返してあげると、相手も安心して話をつづけやすくなるのです。
単に機械的に繰り返すのでなく、相手の気持ちを共感的に受け止めながら繰り返すことが大切であることも述べました。
しかしながら、「繰り返し」のスキルを練習し始めて間もないころは、一種の戸惑いを感じるものです。
実は「繰り返し」を行う者の感じ方と「繰り返し」を受ける者の感じ方は大きく異なるのです。
ある日、学生120名に各々二人組になって「繰り返し」のロール・プレイングを行ってもらったあと、どのような気持ちや感じを経験したかを記述してもらいました。
その結果、「繰り返し」を行う立場では、約半数の学生が「わざとらしくて気がとがめる」「繰り返すだけで相手に失礼のような気がする」「心のこもっていない自分の言葉に嫌悪感を覚える」「あたりまえ過ぎる対応のし方であり効果があるとは思えない」「自分の会話スタイルは捻りを入れることなので、あたりまえのやり方に違和感を覚える」「繰り返すだけでは何も考えていないと思われそう」「単純なやり方で恥ずかしい」といった否定的な意見を表明しました。
ところが、「繰り返し」を受ける立場では70名以上の学生が「自分の言葉を多く拾ってもらえるので丁寧に聴いてもらえている感じがする」「繰り返してもらうことで自分の考えがはっきりしてくる」「繰り返されているだけでも心がこもっている感じがする」「自分を中心にしてもらえているようで大切にされていると感じる」「次々といろいろ話したくなる」「こんなに熱心に聴いてもらえたことはあまりない」「ずっと話しを続けたくなった」といった肯定的な意見を表明したのです。
非常に成績のよい中学生がいました。
大変繊細な感性をもっていて、友達間のもめごとを仲裁したり不登校傾向の友達を学校に誘ったりすることも上手な生徒でした。
そのため、学校の先生からも大いに頼りにされていました。その生徒の両親は地域の指導者的な役割についていました。
特に母親は社会性が抜群で、多くの地域住民に信頼されていました。母親はわが子に道徳的な教えを語り、わが子の奉仕的活動を誇りにしていました。
しかし、中学校生活の中頃からその生徒は登校意欲を減退させ、断続的登校を3週間ほど続けた後、完全不登校になってしまいました。自傷行動の形跡もありました。
カウンセリングには母子一緒に来てくれました。生徒は母親の前では非常に寡黙で、母親だけがたくさん話しました。
今度は、母親に別室で待機していただき、生徒と私が一対一になると、生徒はせき止められていた水が流れ出すように話してくれました。
「お母さんは立派な人だけど、一方的にありがたい教えを話すだけで、自分の気持ちを聴いてくれたことがありません。
自分が話し出すと、『それは違う』『そんな考えでは大人社会では生きていけない』と、かならず途中で否定されてしまいます。
そして、道徳的な話で締め括られて終わってしまうのです」と。
次に母親と一対一でカウンセリングしました。母親は、「地域の責任があるから毎日すごく忙しいんです。
これまでたくさんの人を助けてきました。
人を助けていれば家族も自然に救われるのです。
道徳や倫理的な教えが何より大切です」と言われました。
私は圧倒されながらも、お母さんの人助けの実績を賞賛しました。
そして「大切な地域の方々の話を聴いてあげると同じぐらい、子どもさんの話も聴いてあげていましたか?」と聞いてみました。
母親は驚いたような顔をして、しばらく考えた後、「自分の子どもを地域の方々と重ねて見たことはありませんでした。
身内だから、私の気持ちはわかってくれているとばかり思っていました」と言われました。
その後、カウンセリングの度毎に、「添い寝をしてあげることにしました」「毎晩一家団欒の時間をもつことにしました」「子どもの服を本人の好みで選ばせることにしました」「大人の考えを押しつけないで、聴くことに努力しています」といった、さまざまな工夫を母親が話してくれるようになりました。
それにつれて、その生徒も週に2~3日の朝、プリントや宿題を取りに学級に顔を出すようになりました。
皮肉な言い方のようですが、不登校という手段を用いた子どものメッセージが、家族関係を健全に調整するためのきっかけとして働いたように思われます。
「私が話し出すと、『それは違う』『そんな考えでは大人社会では生きていけない』と、かならず途中で否定されてしまいます」というその生徒のことばは、聴き手の「うなずき」や「繰り返し」の大切さを教えてくれます。
どうして「繰り返し」をしてもらうと、気持ちをわかってもらえたと感じるのでしょうか?
その理由は、同じ言葉をシンクロさせること、つまり同期させることによって、お互いの気持ちが響き合うようになるからなのではないでしょうか。
シンクロの“syn”や“sym”は「共に」「同時」「類似」「同じ」という意味です。
そして「同じ+気持ち」の“sym+pathy”は、「同情」「共感」という意味になります。
最近は「同情」ということばは「あわれみ」というニュアンスで受け取られることがあり、「共感」のほうが好まれる傾向がありますが、「同情」の本来の意味は「他人の気持ち、とくに苦悩を、自分のことのように親身になって共に感じること」(岩波国語辞典)とされています。
聖書でも、人と同じ気持ちになり、同情し合うことを勧めています。「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」(Ⅰペテロ3:8)
聴くことの戸惑い 佐竹 真次
人の話を「傾聴」するには、相手の発言の末尾でうなずくことや、相手の発言をときどき「繰り返す」ことが効果的であると、他節に書きました。
話が途切れたときや、何と返事をすればいいのかわからないときなどに、相手の話の一部を繰り返してあげると、相手も安心して話をつづけやすくなるのです。
単に機械的に繰り返すのでなく、相手の気持ちを共感的に受け止めながら繰り返すことが大切であることも述べました。
しかしながら、「繰り返し」のスキルを練習し始めて間もないころは、一種の戸惑いを感じるものです。
実は「繰り返し」を行う者の感じ方と「繰り返し」を受ける者の感じ方は大きく異なるのです。
ある日、学生120名に各々二人組になって「繰り返し」のロール・プレイングを行ってもらったあと、どのような気持ちや感じを経験したかを記述してもらいました。
その結果、「繰り返し」を行う立場では、約半数の学生が「わざとらしくて気がとがめる」「繰り返すだけで相手に失礼のような気がする」「心のこもっていない自分の言葉に嫌悪感を覚える」「あたりまえ過ぎる対応のし方であり効果があるとは思えない」「自分の会話スタイルは捻りを入れることなので、あたりまえのやり方に違和感を覚える」「繰り返すだけでは何も考えていないと思われそう」「単純なやり方で恥ずかしい」といった否定的な意見を表明しました。
ところが、「繰り返し」を受ける立場では70名以上の学生が「自分の言葉を多く拾ってもらえるので丁寧に聴いてもらえている感じがする」「繰り返してもらうことで自分の考えがはっきりしてくる」「繰り返されているだけでも心がこもっている感じがする」「自分を中心にしてもらえているようで大切にされていると感じる」「次々といろいろ話したくなる」「こんなに熱心に聴いてもらえたことはあまりない」「ずっと話しを続けたくなった」といった肯定的な意見を表明したのです。
非常に成績のよい中学生がいました。
大変繊細な感性をもっていて、友達間のもめごとを仲裁したり不登校傾向の友達を学校に誘ったりすることも上手な生徒でした。
そのため、学校の先生からも大いに頼りにされていました。その生徒の両親は地域の指導者的な役割についていました。
特に母親は社会性が抜群で、多くの地域住民に信頼されていました。母親はわが子に道徳的な教えを語り、わが子の奉仕的活動を誇りにしていました。
しかし、中学校生活の中頃からその生徒は登校意欲を減退させ、断続的登校を3週間ほど続けた後、完全不登校になってしまいました。自傷行動の形跡もありました。
カウンセリングには母子一緒に来てくれました。生徒は母親の前では非常に寡黙で、母親だけがたくさん話しました。
今度は、母親に別室で待機していただき、生徒と私が一対一になると、生徒はせき止められていた水が流れ出すように話してくれました。
「お母さんは立派な人だけど、一方的にありがたい教えを話すだけで、自分の気持ちを聴いてくれたことがありません。
自分が話し出すと、『それは違う』『そんな考えでは大人社会では生きていけない』と、かならず途中で否定されてしまいます。
そして、道徳的な話で締め括られて終わってしまうのです」と。
次に母親と一対一でカウンセリングしました。母親は、「地域の責任があるから毎日すごく忙しいんです。
これまでたくさんの人を助けてきました。
人を助けていれば家族も自然に救われるのです。
道徳や倫理的な教えが何より大切です」と言われました。
私は圧倒されながらも、お母さんの人助けの実績を賞賛しました。
そして「大切な地域の方々の話を聴いてあげると同じぐらい、子どもさんの話も聴いてあげていましたか?」と聞いてみました。
母親は驚いたような顔をして、しばらく考えた後、「自分の子どもを地域の方々と重ねて見たことはありませんでした。
身内だから、私の気持ちはわかってくれているとばかり思っていました」と言われました。
その後、カウンセリングの度毎に、「添い寝をしてあげることにしました」「毎晩一家団欒の時間をもつことにしました」「子どもの服を本人の好みで選ばせることにしました」「大人の考えを押しつけないで、聴くことに努力しています」といった、さまざまな工夫を母親が話してくれるようになりました。
それにつれて、その生徒も週に2~3日の朝、プリントや宿題を取りに学級に顔を出すようになりました。
皮肉な言い方のようですが、不登校という手段を用いた子どものメッセージが、家族関係を健全に調整するためのきっかけとして働いたように思われます。
「私が話し出すと、『それは違う』『そんな考えでは大人社会では生きていけない』と、かならず途中で否定されてしまいます」というその生徒のことばは、聴き手の「うなずき」や「繰り返し」の大切さを教えてくれます。
どうして「繰り返し」をしてもらうと、気持ちをわかってもらえたと感じるのでしょうか?
その理由は、同じ言葉をシンクロさせること、つまり同期させることによって、お互いの気持ちが響き合うようになるからなのではないでしょうか。
シンクロの“syn”や“sym”は「共に」「同時」「類似」「同じ」という意味です。
そして「同じ+気持ち」の“sym+pathy”は、「同情」「共感」という意味になります。
最近は「同情」ということばは「あわれみ」というニュアンスで受け取られることがあり、「共感」のほうが好まれる傾向がありますが、「同情」の本来の意味は「他人の気持ち、とくに苦悩を、自分のことのように親身になって共に感じること」(岩波国語辞典)とされています。
聖書でも、人と同じ気持ちになり、同情し合うことを勧めています。「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」(Ⅰペテロ3:8)
by ybible63
| 2006-03-22 11:17
| ★教育シリーズ(子育て)