2006年 03月 22日
教育シリーズ 第20回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
恵みは十分
佐竹 真次
焼きイモ屋の看板に「ほっかほかの焼きイモ。おいしい栗味」と書いてあったそうです。
それを中学生の男の子が見て言ったそうです。
「なんで、イモは自分の味で勝負しないんじゃ。」
私はサツマイモが好きなので、彼のことばにとても共感できます。
わが子が誕生したときには、「健康に育ってくれればそれだけでよい」と誰もが考えるものです。しかし、まもなく「這えば『立て』、立てば『歩け』の親心」といった要求水準のレベル・アップが始まります。
もちろん適度なレベル・アップは子どもの発達を支えていくために重要なものですが、バブル経済のように上がり過ぎてしまうと、子どもに備わった大切な資質をつぶしてしまうことにもなりかねません。
「イモ」を無理に「栗」の味にしようとすると、「イモ」本来の味がそこなわれてしまうような気がします。
ある女子中学生は優秀な家系とされる名家に育ちました。
両親も一流といわれる高校や大学を卒業していました。両親は彼女にも自分たちと同じような歩みを期待し、彼女が中学生になると定期試験の成績の順番を上げることに両親は強く執着するようになりました。
しかし、彼女は数学や英語よりも芸術系の方に関心と能力があったため、両親の期待に応えられないという罪責感に苦しむようになり、ついに登校しなくなってしまいました。
私が母親に直接会って話を聞いてみると、「子どもの将来のために…」と言う柔らかな語り口の中には、真綿で少しずつ首を絞めていくような重圧感がありました。
子どもの不登校は親にとっても本当に辛いものです。1年間彼女と向き合っているうちに、両親は要求水準を彼女自身の希望する道に近づけてくれました。
彼女はありのままの成績と希望する進路を両親に認めてもらえるようになったときから、徐々に登校を始めました。
ある女子学生は、就職の心配がないからという理由で母親から強く勧められ、医療系の学校に入学しました。
病院実習が始まるころから体調不良になり相談を受けました。
聞いてみると、病院で働くことが怖くてたまらないといいます。
本当はペット関係の仕事に就きたかったが、母親から一蹴されてしまったということでした。
彼女はスーパーマーケットなどでのアルバイトは元気よくできているのですが、母親と会って話を聞くと、「娘をお金の取れる仕事につけるのが親のつとめだ」と言います。
母親の考えもまったく間違っているわけではありませんが、本人の体が動きません。
数日後、自分の部屋で手首を切って血を流している彼女を母親が見つけ、彼女に進路変更を許してくれました。
現在の彼女は自分に合った職場で見違えるように元気に働いています。
ある30歳代の引きこもり青年がいました。
父親は大会社の役員になった人でした。
その父親からよく「おれを超えてみろ。このバカ」と言われ、叩かれながら勉強させられていたそうです。
彼はとりあえず大学を卒業しました。
しかし、就職しても長く続かず、職を転々としました。
恐ろしい父親が数年前に急死しました。そのとたん「おれが親父に虐待されていたときに、なぜ助けてくれなかった!」と言って母親に暴力をふるうようになり、家に引きこもってしまったのです。
母親は「助けようとしたけれど怖くて助けられなかった。申し訳ない」と言って泣いています。
別の青年は年齢と養育環境の点で前記の青年と似ていますが、母親が亡くなっており、公務員である父親と暮らしています。
引きこもり傾向はありますが、本人には働かなければという意識があり、元気がたまってくるとアルバイトを始めます。
そうすると数日後には、「アルバイトなんかやってないで早く定職に就け」と父親から叱られます。
父親は、せっかく出てきた芽を価値あるものと思えず、毎回摘み取ってしまうのです。
でも、どんな場合でも、今できるところから始めるしか方法はないのです。
ある先生の娘が第一希望の名門高校の受験で不合格になり、第二希望の高校に入学しました。
下の子どもの担任が家庭訪問に見えたときに、同業者としての見栄もあり、「上の娘が受験に失敗しちゃって、○○高校なんかに入っちゃったんですよ」と小さな声で話したといいます。
しかし、その話は隣の部屋にいた娘本人の耳にしっかりと届いていました。
下の子どもの担任が帰ったあとに娘が出てきて、「私は受験には失敗したけど、人生には失敗していないからね!」と泣きながら言ったといいます。
その先生は、生徒たちをとりわけ尊重しなければならない立場の自分がわが子を傷つけてしまっていることに気づいて、自分を恥じて反省したということでした。
私は「でも、それだけのことを言える子どもに育てたあなたは立派です」と言ってその先生を励ましました。
ところで、人間は複数の種類の知能を持つという多重知能説の話題が最近よく取り上げられます。
ガードナーという心理学者によれば、人の知能は「言語的知能」(ことばを扱う)、「論理数学的知能」(数、記号、図形を扱う)、「空間的知能」(イメージや映像を扱う)、「身体運動的知能」(身体と運動を扱う)、「音楽的知能」(リズムと音のパターンを扱う)、「対人的知能」(他人とのコミュニケーションを扱う)、「自己検討的知能」(自己とその精神的リアリティーという内的側面を扱う)の7つであるといいます(文献)。
これらの知能はそれぞれある程度独立していると考えられますから、人によって得意なものに差が出てきます。
誰もがそれぞれの異なった能力と個性を持って生まれてくるといってもよいと思います。
当然弱点もあります。
しかし、それが良い悪いというのではなく、弱点をも含めてさまざまな知能の存在とそのユニークさを認め、お互いに補い合うように工夫しながら、それら全体を十分に生かしていくことが重要であると思うのです。
聖書には、「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われた」(コリントⅡ12:9)と書いてあります。
偉大な伝道者であるパウロに神が言われたことばです。当時の超エリート教育を受けたパウロでしたが、何か決定的な弱点があったらしいのです。
傲慢になってもおかしくないほどに資質と能力に恵まれたパウロでした。
しかし、その弱点があるためにパウロは高ぶることができなかったといいます。
弱点があるからこそ、神様がパウロを最高に用いてくださったという逆説的な事実は、なんと私たちを勇気づけてくれることでしょう。
欲張り過ぎず、つまり要求水準を上げ過ぎず、また、上がり過ぎている場合は適度に落とし、神様が備えてくださった力を感謝しつつ活用して、個々の持ち味を生かしていくことが何よりも大切であると思います。
文献
ハワード・ガードナー(黒上晴夫 訳)(2003):多元的知能の世界-MI理論の
活用と可能性.日本文教出版.
恵みは十分
佐竹 真次
焼きイモ屋の看板に「ほっかほかの焼きイモ。おいしい栗味」と書いてあったそうです。
それを中学生の男の子が見て言ったそうです。
「なんで、イモは自分の味で勝負しないんじゃ。」
私はサツマイモが好きなので、彼のことばにとても共感できます。
わが子が誕生したときには、「健康に育ってくれればそれだけでよい」と誰もが考えるものです。しかし、まもなく「這えば『立て』、立てば『歩け』の親心」といった要求水準のレベル・アップが始まります。
もちろん適度なレベル・アップは子どもの発達を支えていくために重要なものですが、バブル経済のように上がり過ぎてしまうと、子どもに備わった大切な資質をつぶしてしまうことにもなりかねません。
「イモ」を無理に「栗」の味にしようとすると、「イモ」本来の味がそこなわれてしまうような気がします。
ある女子中学生は優秀な家系とされる名家に育ちました。
両親も一流といわれる高校や大学を卒業していました。両親は彼女にも自分たちと同じような歩みを期待し、彼女が中学生になると定期試験の成績の順番を上げることに両親は強く執着するようになりました。
しかし、彼女は数学や英語よりも芸術系の方に関心と能力があったため、両親の期待に応えられないという罪責感に苦しむようになり、ついに登校しなくなってしまいました。
私が母親に直接会って話を聞いてみると、「子どもの将来のために…」と言う柔らかな語り口の中には、真綿で少しずつ首を絞めていくような重圧感がありました。
子どもの不登校は親にとっても本当に辛いものです。1年間彼女と向き合っているうちに、両親は要求水準を彼女自身の希望する道に近づけてくれました。
彼女はありのままの成績と希望する進路を両親に認めてもらえるようになったときから、徐々に登校を始めました。
ある女子学生は、就職の心配がないからという理由で母親から強く勧められ、医療系の学校に入学しました。
病院実習が始まるころから体調不良になり相談を受けました。
聞いてみると、病院で働くことが怖くてたまらないといいます。
本当はペット関係の仕事に就きたかったが、母親から一蹴されてしまったということでした。
彼女はスーパーマーケットなどでのアルバイトは元気よくできているのですが、母親と会って話を聞くと、「娘をお金の取れる仕事につけるのが親のつとめだ」と言います。
母親の考えもまったく間違っているわけではありませんが、本人の体が動きません。
数日後、自分の部屋で手首を切って血を流している彼女を母親が見つけ、彼女に進路変更を許してくれました。
現在の彼女は自分に合った職場で見違えるように元気に働いています。
ある30歳代の引きこもり青年がいました。
父親は大会社の役員になった人でした。
その父親からよく「おれを超えてみろ。このバカ」と言われ、叩かれながら勉強させられていたそうです。
彼はとりあえず大学を卒業しました。
しかし、就職しても長く続かず、職を転々としました。
恐ろしい父親が数年前に急死しました。そのとたん「おれが親父に虐待されていたときに、なぜ助けてくれなかった!」と言って母親に暴力をふるうようになり、家に引きこもってしまったのです。
母親は「助けようとしたけれど怖くて助けられなかった。申し訳ない」と言って泣いています。
別の青年は年齢と養育環境の点で前記の青年と似ていますが、母親が亡くなっており、公務員である父親と暮らしています。
引きこもり傾向はありますが、本人には働かなければという意識があり、元気がたまってくるとアルバイトを始めます。
そうすると数日後には、「アルバイトなんかやってないで早く定職に就け」と父親から叱られます。
父親は、せっかく出てきた芽を価値あるものと思えず、毎回摘み取ってしまうのです。
でも、どんな場合でも、今できるところから始めるしか方法はないのです。
ある先生の娘が第一希望の名門高校の受験で不合格になり、第二希望の高校に入学しました。
下の子どもの担任が家庭訪問に見えたときに、同業者としての見栄もあり、「上の娘が受験に失敗しちゃって、○○高校なんかに入っちゃったんですよ」と小さな声で話したといいます。
しかし、その話は隣の部屋にいた娘本人の耳にしっかりと届いていました。
下の子どもの担任が帰ったあとに娘が出てきて、「私は受験には失敗したけど、人生には失敗していないからね!」と泣きながら言ったといいます。
その先生は、生徒たちをとりわけ尊重しなければならない立場の自分がわが子を傷つけてしまっていることに気づいて、自分を恥じて反省したということでした。
私は「でも、それだけのことを言える子どもに育てたあなたは立派です」と言ってその先生を励ましました。
ところで、人間は複数の種類の知能を持つという多重知能説の話題が最近よく取り上げられます。
ガードナーという心理学者によれば、人の知能は「言語的知能」(ことばを扱う)、「論理数学的知能」(数、記号、図形を扱う)、「空間的知能」(イメージや映像を扱う)、「身体運動的知能」(身体と運動を扱う)、「音楽的知能」(リズムと音のパターンを扱う)、「対人的知能」(他人とのコミュニケーションを扱う)、「自己検討的知能」(自己とその精神的リアリティーという内的側面を扱う)の7つであるといいます(文献)。
これらの知能はそれぞれある程度独立していると考えられますから、人によって得意なものに差が出てきます。
誰もがそれぞれの異なった能力と個性を持って生まれてくるといってもよいと思います。
当然弱点もあります。
しかし、それが良い悪いというのではなく、弱点をも含めてさまざまな知能の存在とそのユニークさを認め、お互いに補い合うように工夫しながら、それら全体を十分に生かしていくことが重要であると思うのです。
聖書には、「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われた」(コリントⅡ12:9)と書いてあります。
偉大な伝道者であるパウロに神が言われたことばです。当時の超エリート教育を受けたパウロでしたが、何か決定的な弱点があったらしいのです。
傲慢になってもおかしくないほどに資質と能力に恵まれたパウロでした。
しかし、その弱点があるためにパウロは高ぶることができなかったといいます。
弱点があるからこそ、神様がパウロを最高に用いてくださったという逆説的な事実は、なんと私たちを勇気づけてくれることでしょう。
欲張り過ぎず、つまり要求水準を上げ過ぎず、また、上がり過ぎている場合は適度に落とし、神様が備えてくださった力を感謝しつつ活用して、個々の持ち味を生かしていくことが何よりも大切であると思います。
文献
ハワード・ガードナー(黒上晴夫 訳)(2003):多元的知能の世界-MI理論の
活用と可能性.日本文教出版.
by ybible63
| 2006-03-22 09:26
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