2006年 03月 22日
教育シリーズ 第16回 |
しつけと虐待
佐竹 真次
2001年に日弁連は虐待と非行に関するアンケート結果を報告しました。
それは犯罪に手を染めた少年約500人とその親を対象としたもので、親が「厳しくしつけた」と言い、子は「虐待を受けた」と答えた組み合わせにおいて、問題行動の割合がより高く示されたといいます。
弁護士たちは「しつけ不足で非行が起きるのではなく、子どもが『虐待を受けた』と思ってしまうほどの親の行為が、かえって非行を招いている」と分析しています。
虐待が起きる要因として、①子ども時代に虐待を受けて育った親、②生活上のストレス、③社会的孤立、④親の意にそわない子ども、などが考えられています。
子ども時代に虐待を受けて育った親がわが子を虐待し、さらにそれが次の世代でも繰り返されるといわれます。
これは「世代間連鎖」とよばれます。②~④はその促進要因となります。
身体的・心理的虐待を受けた人には、不安、抑うつ、人との関係づくりの困難、低い自己肯定感、消極性、怒りっぽさ、攻撃性、他人に注目されることへの執着といった特徴が多くみられます。
性的虐待を受けた人は、それらに加えて、大人に対する恐怖、罪責感、自分を粗末にすること、自殺企図などの傾向をみせます。
これらは、虐待を受けたときに、極端な恐怖や心身の強烈な痛みが心の奥底に刷り込まれ、それが自動的といってもよいほどに情動(感情)に強く影響を及ぼし続けているためであると考えられています。
そのような虐待による心の傷は、身体の傷と同様、しかるべき手当てを受ける必要があります。ある虐待歴をもつ主婦は「お願いです。虐待している方、昔、虐待していた方、自分の心のケアをきちんとしてから、子どもに心から謝って、そして抱きしめてください」と新聞に投書していました(文献)。
しかし、虐待を受けた人は、情動面の問題だけでなく、同時に、親の暴力や脅しや無視といった不適切な働きかけでなされる育児行動をも体験し、観察し、学習していることが考えられます。別の言い方をすれば、親の健全で適切な育児行動を体験できず、観察できなかったために、それをほとんど学習していないとも考えられます。
これが2つ目の大きな問題です。
最近、若い母親が1歳7ヵ月の子どもに熱湯をかけるなどして虐待し、死亡させるという事件が報道されました。
母親は「子どもがおもちゃを片づけずに騒ぐので腹がたってやった」と話していました。
虐待した親の言い分のほとんどは「わが子が親の期待どおりに行動してくれないから、しつけのつもりでおしおきをし過ぎてしまった」というものです。
無我夢中でおしおきしているうちに、子どもは出血したり骨折したりやけどを負ったりし、ついには死んでしまうこともあるのです。
なぜしつけと虐待は混同されるのでしょうか?
国語辞典によると、「しつけ」とは「躾」とも書き、「礼儀・作法を教え込むこと」だそうです。一方、「虐待」とは「むごい、無慈悲な扱いをすること」だそうです。
つまり、しつけは正しい行動を教えることで、虐待はやみくもに罰を与えることといえそうです。
そうであるとすれば、しつけとは、まず第1に、教えたい行動の模範を示すこと、第2にやらせてみること、第3にむずかしい部分を教えたり軽く援助したりすること、第4にその行動ができたらほめてあげることという、学習の4つのステップを踏むことです。
聖書にも「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ5:3)と書かれています。
しかし、もっぱら命令と罰だけを受けながら何とか生活行動を学習してきた親は、命令と罰がしつけであると勘違いしやすいのです。
小さい子どもにむずかしいことばで命令しても、子どもは何をすればいいのかわからず、ただ混乱しておびえてしまいます。
命令どおりに子どもが動かないので、親はイライラをつのらせ、怒りにまかせて罰をたくさん与えてしまいます。これが虐待に発展します。
親は誰でも自分が育てられた育児法をわが子に反射的に応用しようとする傾向があります。
たとえば、私はわが子が悪さをしたときに、水が張られた風呂おけの上で、子どもの両足を持って逆さにつるしたくなる衝動に駆られます。
実は、それは私自身が幼児のときに父親からされていた罰の一つでした。
とっさのときにそれしか思い浮かばなくなるという自分自身の危険性に気づき、とても情けない気持ちになります。
今はもう、わが子も青年ですから、逆さにつるすこともできず、その衝動におびえる必要もなくなり、ホッとしています。
ですから、親は自分が育てられた育児法を反省し、その良い部分だけを応用するように気をつける必要があります。
聖書には「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:11)と書かれています。
意識改革だけで改善できない場合は、適切な育児法の研修や訓練を受けるという方法もあります。
3つ目の大きな問題は、虐待する親は子どもを虐待している事実を隠そうとすることです。
3歳の息子を飢えさせて死なせてしまった父親は、「病院に行かなくては、とも思った。
でもこのような状態で連れて行けば、ちゃんとした育て方をしていないと批判されるのではないか、病院から警察に通報されるのではないかと、自分のことばかり心配してしまった」と供述しました。
前述したように、虐待する親は著しく自己評価が低いといわれます。
そのような親にとって、援助の手をさしのべてくる相手は自分よりも強い存在に見えます。
「ダメな親」と否定されてしまう恐怖感が先に立ち、素直に「助けて」と言えないことが多いというのです。
第三者が積極的に助けの手をのべても、親は自己防衛が強く、門前払いをされてしまうこともあります。
しかし、虐待している親の方々には、最悪の結果になる前に、保健医療や福祉などの社会資源に気軽に助けを求めて欲しいと思うのです。
また、取り巻く周囲の人々は、そうした親を一方的に責めるのではなく、不遇な生育史について無批判に共感的に聞き続けることが大切だと思うのです。
子どもを虐待した経験を悔やむ母親たちは次のように言っています。
「ただ『うん、うん』と聞いてくれる第三者がいたら、あんなことはなかったと思います。」(文献)「私は、思い切って『自分だけの時間を作りたい』と、夫に相談してみました。すると、二つ返事で子守りを引き受けてくれました。」(文献)
文献
青山健一(2001):児童虐待 大人になっても消えない心の傷「謝って、抱きし
めて」.読売新聞2001年4月22日.
匿名(2001):幼児虐待した私 ごめんね許して.読売新聞2001年4月4日.
石原ゆみ子(2001):一人の時間作り育児も一層充実.読売新聞2001年4月24
日.
佐竹 真次
2001年に日弁連は虐待と非行に関するアンケート結果を報告しました。
それは犯罪に手を染めた少年約500人とその親を対象としたもので、親が「厳しくしつけた」と言い、子は「虐待を受けた」と答えた組み合わせにおいて、問題行動の割合がより高く示されたといいます。
弁護士たちは「しつけ不足で非行が起きるのではなく、子どもが『虐待を受けた』と思ってしまうほどの親の行為が、かえって非行を招いている」と分析しています。
虐待が起きる要因として、①子ども時代に虐待を受けて育った親、②生活上のストレス、③社会的孤立、④親の意にそわない子ども、などが考えられています。
子ども時代に虐待を受けて育った親がわが子を虐待し、さらにそれが次の世代でも繰り返されるといわれます。
これは「世代間連鎖」とよばれます。②~④はその促進要因となります。
身体的・心理的虐待を受けた人には、不安、抑うつ、人との関係づくりの困難、低い自己肯定感、消極性、怒りっぽさ、攻撃性、他人に注目されることへの執着といった特徴が多くみられます。
性的虐待を受けた人は、それらに加えて、大人に対する恐怖、罪責感、自分を粗末にすること、自殺企図などの傾向をみせます。
これらは、虐待を受けたときに、極端な恐怖や心身の強烈な痛みが心の奥底に刷り込まれ、それが自動的といってもよいほどに情動(感情)に強く影響を及ぼし続けているためであると考えられています。
そのような虐待による心の傷は、身体の傷と同様、しかるべき手当てを受ける必要があります。ある虐待歴をもつ主婦は「お願いです。虐待している方、昔、虐待していた方、自分の心のケアをきちんとしてから、子どもに心から謝って、そして抱きしめてください」と新聞に投書していました(文献)。
しかし、虐待を受けた人は、情動面の問題だけでなく、同時に、親の暴力や脅しや無視といった不適切な働きかけでなされる育児行動をも体験し、観察し、学習していることが考えられます。別の言い方をすれば、親の健全で適切な育児行動を体験できず、観察できなかったために、それをほとんど学習していないとも考えられます。
これが2つ目の大きな問題です。
最近、若い母親が1歳7ヵ月の子どもに熱湯をかけるなどして虐待し、死亡させるという事件が報道されました。
母親は「子どもがおもちゃを片づけずに騒ぐので腹がたってやった」と話していました。
虐待した親の言い分のほとんどは「わが子が親の期待どおりに行動してくれないから、しつけのつもりでおしおきをし過ぎてしまった」というものです。
無我夢中でおしおきしているうちに、子どもは出血したり骨折したりやけどを負ったりし、ついには死んでしまうこともあるのです。
なぜしつけと虐待は混同されるのでしょうか?
国語辞典によると、「しつけ」とは「躾」とも書き、「礼儀・作法を教え込むこと」だそうです。一方、「虐待」とは「むごい、無慈悲な扱いをすること」だそうです。
つまり、しつけは正しい行動を教えることで、虐待はやみくもに罰を与えることといえそうです。
そうであるとすれば、しつけとは、まず第1に、教えたい行動の模範を示すこと、第2にやらせてみること、第3にむずかしい部分を教えたり軽く援助したりすること、第4にその行動ができたらほめてあげることという、学習の4つのステップを踏むことです。
聖書にも「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ5:3)と書かれています。
しかし、もっぱら命令と罰だけを受けながら何とか生活行動を学習してきた親は、命令と罰がしつけであると勘違いしやすいのです。
小さい子どもにむずかしいことばで命令しても、子どもは何をすればいいのかわからず、ただ混乱しておびえてしまいます。
命令どおりに子どもが動かないので、親はイライラをつのらせ、怒りにまかせて罰をたくさん与えてしまいます。これが虐待に発展します。
親は誰でも自分が育てられた育児法をわが子に反射的に応用しようとする傾向があります。
たとえば、私はわが子が悪さをしたときに、水が張られた風呂おけの上で、子どもの両足を持って逆さにつるしたくなる衝動に駆られます。
実は、それは私自身が幼児のときに父親からされていた罰の一つでした。
とっさのときにそれしか思い浮かばなくなるという自分自身の危険性に気づき、とても情けない気持ちになります。
今はもう、わが子も青年ですから、逆さにつるすこともできず、その衝動におびえる必要もなくなり、ホッとしています。
ですから、親は自分が育てられた育児法を反省し、その良い部分だけを応用するように気をつける必要があります。
聖書には「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:11)と書かれています。
意識改革だけで改善できない場合は、適切な育児法の研修や訓練を受けるという方法もあります。
3つ目の大きな問題は、虐待する親は子どもを虐待している事実を隠そうとすることです。
3歳の息子を飢えさせて死なせてしまった父親は、「病院に行かなくては、とも思った。
でもこのような状態で連れて行けば、ちゃんとした育て方をしていないと批判されるのではないか、病院から警察に通報されるのではないかと、自分のことばかり心配してしまった」と供述しました。
前述したように、虐待する親は著しく自己評価が低いといわれます。
そのような親にとって、援助の手をさしのべてくる相手は自分よりも強い存在に見えます。
「ダメな親」と否定されてしまう恐怖感が先に立ち、素直に「助けて」と言えないことが多いというのです。
第三者が積極的に助けの手をのべても、親は自己防衛が強く、門前払いをされてしまうこともあります。
しかし、虐待している親の方々には、最悪の結果になる前に、保健医療や福祉などの社会資源に気軽に助けを求めて欲しいと思うのです。
また、取り巻く周囲の人々は、そうした親を一方的に責めるのではなく、不遇な生育史について無批判に共感的に聞き続けることが大切だと思うのです。
子どもを虐待した経験を悔やむ母親たちは次のように言っています。
「ただ『うん、うん』と聞いてくれる第三者がいたら、あんなことはなかったと思います。」(文献)「私は、思い切って『自分だけの時間を作りたい』と、夫に相談してみました。すると、二つ返事で子守りを引き受けてくれました。」(文献)
文献
青山健一(2001):児童虐待 大人になっても消えない心の傷「謝って、抱きし
めて」.読売新聞2001年4月22日.
匿名(2001):幼児虐待した私 ごめんね許して.読売新聞2001年4月4日.
石原ゆみ子(2001):一人の時間作り育児も一層充実.読売新聞2001年4月24
日.
by ybible63
| 2006-03-22 12:10
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