2006年 03月 22日
教育シリーズ 第15回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
行く道にふさわしく 佐竹 真次
近年、学習障害(Learning Disabilities)をもつ子どもたちの教育について、取り組みが本格的に検討されるようになってきました(文献)。
学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないのですが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に、著しい困難を示す様々な状態であるといわれます。
学習障害の原因としては、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されていますが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因とはならないとされます。
具体的には、「一対一で話すとよくわかるのに集団の中では理解が悪い」「一人だけ違う行動をとってしまう」「おしゃべりなのに、話がとんだりずれたりする」「一生懸命本を読むのに、同じ行を読んだり行をとばしたりする」「文字を書くのが苦手」「鏡文字がなかなかなおらない」「筆算のけたがずれやすい」「たずねられたことに対して答がずれていたり、関係のないことを言ったりする」といった特徴がみられることがあります。
ある日、学習障害をもつ中学1年生に出会いました。
知能はほぼ正常で、文字の読み書きはできるのですが、中1の数学はほとんどできない状態でした。
自分の考えや判断力はあるのですが、会話をしていると自分のペースでどんどん話を進めてしまう場合があり、聞き手が適切に軌道を修正してあげる必要を感じさせられました。
学校の話をしているときに、「お母さん、宇宙の果てはどうなっているのだと思う?」などと唐突に話題が変わることも珍しくありませんでした。
また、彼の振る舞いには、何となくおどおどしたおびえのようなものが感じられました。
彼のことで、お母さんは2つの悩みをもっていました。
一つは、友達との関わりが下手なのでいじめのターゲットになりやすく、頻繁にいじめられているのに担任が真剣に対応してくれないということでした。
二つ目は、彼にテストで少しでも点数を取らせようと勉強させるのですが、思うように覚えてくれず、母親は焦りをつのらせ、本人は頬や目、手などにチックを表出してしまうということでした。
私は、一つ目について、管理職に事情を聞いてもらうことを勧めました。
幸い、話のわかる校長先生で、いじめる生徒たちにきちんと話をしてくれ、危険なときには校長室に逃げて来るように、と受け容れてくれました。
二つ目については、無理に難しい勉強をさせずに、漢字や常識的な知識などの、本人が簡単に理解できる課題に限って勉強させること、また、むしろ社会性の発達の方が重要であるから、穏やかで温かい人々の交わりに加わることを勧めました。
母親は自分で教えることをやめ、発達障害を専攻している学生を家庭教師に招きました。
そして、不登校や学習障害に理解のある牧師の教会の交わりに一家して加わりました。
その後、彼は見違えるように元気になり、実学中心の定時制高校に入学し、アルバイトをしながら5年かけて卒業し、その間、教会で洗礼も受け、つい最近、衣料品小売の大手チェーン店に就職しました。
在庫管理の仕事をとても真面目にやっているので、店長からは「彼は、うちの店にいてもらわなくてはならない人材です」と言われたそうです。
学習障害児の教育においては、学習障害という一次障害に適切に対応することは大切ですが、むしろ、周囲の対応のまずさに起因する人格の歪みという二次障害の方が大きな問題になる場合があります。
彼は、早い段階で周囲の対応のあり方がバランスよく調整されたので、人格が健全に発達させられたのだと、私は思います。
聖書には、「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)と書かれています。「その行く道にふさわしく」というのは「その子どもの個性や興味にしたがって」という意味です。
ですから、この箇所は「子どもの個性と人格を重んじ、発達状態の個人差に応じた教育をするなら、健全な人格が形成され、年老いてからも正しい道から外れないようになる」と読むこともできます。
不得意なものを無理に頑張らせられることは、大変な苦痛を伴います。
私は全身運動が不得意で、走らせてもだめ、球技をやらせてもだめ、器用なのは手先と口先だけでした。
数学も苦手でした。
中学1年のとき、私がどんなに考えても理屈のわからない式を、ある友達がパズルでも解くように何の苦もなく解いている姿を私は見ました。
ものすごくインパクトのある光景でした。それを見て、「ここには何か根本的な違いがある。彼と同じことをしていてもだめだ」と思ったのです。
そのときから、「人が嫌がることでも、自分に苦痛なくできることは何か?」と考える習慣がつきました。
人間は皆が等質でなくてもよい、皆が横並びでなくてもよい、ということを学習障害から学ばせられます。
一人ひとりを個性的にお造りになり、それをすべて良しとしてくださる神様の価値観を、学習障害児は身をもって証ししてくれているように思えてなりません。
文献
文部科学省(2004):小・中学校におけるLD(学習障害),ADHD(注意欠
陥/多動性障害),高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のための
ガイドライン(試案).東洋館出版社.
行く道にふさわしく 佐竹 真次
近年、学習障害(Learning Disabilities)をもつ子どもたちの教育について、取り組みが本格的に検討されるようになってきました(文献)。
学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないのですが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に、著しい困難を示す様々な状態であるといわれます。
学習障害の原因としては、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されていますが、視覚障害、聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因とはならないとされます。
具体的には、「一対一で話すとよくわかるのに集団の中では理解が悪い」「一人だけ違う行動をとってしまう」「おしゃべりなのに、話がとんだりずれたりする」「一生懸命本を読むのに、同じ行を読んだり行をとばしたりする」「文字を書くのが苦手」「鏡文字がなかなかなおらない」「筆算のけたがずれやすい」「たずねられたことに対して答がずれていたり、関係のないことを言ったりする」といった特徴がみられることがあります。
ある日、学習障害をもつ中学1年生に出会いました。
知能はほぼ正常で、文字の読み書きはできるのですが、中1の数学はほとんどできない状態でした。
自分の考えや判断力はあるのですが、会話をしていると自分のペースでどんどん話を進めてしまう場合があり、聞き手が適切に軌道を修正してあげる必要を感じさせられました。
学校の話をしているときに、「お母さん、宇宙の果てはどうなっているのだと思う?」などと唐突に話題が変わることも珍しくありませんでした。
また、彼の振る舞いには、何となくおどおどしたおびえのようなものが感じられました。
彼のことで、お母さんは2つの悩みをもっていました。
一つは、友達との関わりが下手なのでいじめのターゲットになりやすく、頻繁にいじめられているのに担任が真剣に対応してくれないということでした。
二つ目は、彼にテストで少しでも点数を取らせようと勉強させるのですが、思うように覚えてくれず、母親は焦りをつのらせ、本人は頬や目、手などにチックを表出してしまうということでした。
私は、一つ目について、管理職に事情を聞いてもらうことを勧めました。
幸い、話のわかる校長先生で、いじめる生徒たちにきちんと話をしてくれ、危険なときには校長室に逃げて来るように、と受け容れてくれました。
二つ目については、無理に難しい勉強をさせずに、漢字や常識的な知識などの、本人が簡単に理解できる課題に限って勉強させること、また、むしろ社会性の発達の方が重要であるから、穏やかで温かい人々の交わりに加わることを勧めました。
母親は自分で教えることをやめ、発達障害を専攻している学生を家庭教師に招きました。
そして、不登校や学習障害に理解のある牧師の教会の交わりに一家して加わりました。
その後、彼は見違えるように元気になり、実学中心の定時制高校に入学し、アルバイトをしながら5年かけて卒業し、その間、教会で洗礼も受け、つい最近、衣料品小売の大手チェーン店に就職しました。
在庫管理の仕事をとても真面目にやっているので、店長からは「彼は、うちの店にいてもらわなくてはならない人材です」と言われたそうです。
学習障害児の教育においては、学習障害という一次障害に適切に対応することは大切ですが、むしろ、周囲の対応のまずさに起因する人格の歪みという二次障害の方が大きな問題になる場合があります。
彼は、早い段階で周囲の対応のあり方がバランスよく調整されたので、人格が健全に発達させられたのだと、私は思います。
聖書には、「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)と書かれています。「その行く道にふさわしく」というのは「その子どもの個性や興味にしたがって」という意味です。
ですから、この箇所は「子どもの個性と人格を重んじ、発達状態の個人差に応じた教育をするなら、健全な人格が形成され、年老いてからも正しい道から外れないようになる」と読むこともできます。
不得意なものを無理に頑張らせられることは、大変な苦痛を伴います。
私は全身運動が不得意で、走らせてもだめ、球技をやらせてもだめ、器用なのは手先と口先だけでした。
数学も苦手でした。
中学1年のとき、私がどんなに考えても理屈のわからない式を、ある友達がパズルでも解くように何の苦もなく解いている姿を私は見ました。
ものすごくインパクトのある光景でした。それを見て、「ここには何か根本的な違いがある。彼と同じことをしていてもだめだ」と思ったのです。
そのときから、「人が嫌がることでも、自分に苦痛なくできることは何か?」と考える習慣がつきました。
人間は皆が等質でなくてもよい、皆が横並びでなくてもよい、ということを学習障害から学ばせられます。
一人ひとりを個性的にお造りになり、それをすべて良しとしてくださる神様の価値観を、学習障害児は身をもって証ししてくれているように思えてなりません。
文献
文部科学省(2004):小・中学校におけるLD(学習障害),ADHD(注意欠
陥/多動性障害),高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のための
ガイドライン(試案).東洋館出版社.
by ybible63
| 2006-03-22 13:35
| ★教育シリーズ(子育て)