2006年 03月 22日
教育シリーズ 第14回 |
レッセージと勘違い
佐竹 真次
息子が中学生だったころの話です。
私の住まいは田んぼの中にあり、農道が通学路になっています。
道の先はビニールハウスで隠れてしまいますが、手前の100メートルほどは、毎朝通学する小中学生の姿がよく見えます。
ある朝、息子が登校する姿を窓から見ていたら、下をうつむいてトボトボと歩いているのです。元気がなさそうでした。そこで、夕方、息子に聞いてみました。「朝、元気なさそうに下をうつむいて歩いていたけど、何か悩みごとがあるの?勉強が難しい?部活で疲れてる?いじめられてない?」息子が答えました。
「最近、道に犬のうんこがたくさん落ちていてさ、よく下を見てゆっくり歩かないと、うっかり踏んでしまうんだよね。でも、学校はおもしろいよ。」
息子が犬のうんこを踏まないように慎重に歩くことは、無意識の「メッセージ」でした。
私たちの目に映った息子の姿を「標示」としておきましょう。
そして、息子は元気がなく、悩みがあるに違いない、と私が解釈した結果を「レッセージ」と呼ぶことにします。
「レッセージ」とは、“receiver’s message”(受け手が解釈したメッセージ)を短縮した上越教育大学の宇佐美昇三教授の造語です(文献)。
「メッセージ」は常に送り手の心の中にあり、それそのものを見聞きすることはできません。
それは必ず、ことばや行動や記号といった「標示」の形で表現されます。
私たちは自分が経験したことのある様々な枠組みをその「標示」にあてはめてみて、とりあえず最も妥当と思われる「レッセージ」を作るのです。
ですから、もし、私たちが一度も経験したことのない外国の不思議な習慣を目にしたら、解釈に使える枠組みを一つも持たないために、妥当な「レッセージ」を作ることはほとんどできないのです。
無理に想像した「レッセージ」はことごとく誤解や勘違いになるはずです。
私たちの日常生活では、相手の「標示」を自分の経験的枠組みに慎重に照らして導き出した「レッセージ」が、相手の「メッセージ」と一致している場合が多く、そのようなときは、お互いに理解し合っているという実感を共有できます。
しかしながら、「レッセージ」が「メッセージ」と一致しない場合も少なくありません。
たとえば、以下のような例が考えられます。
ある朝の6時に、珍しく目覚まし時計が鳴る前に子どもが起きたとします。
子どもは「眠気が覚める方法ない?」と親に聞きました。
「顔を洗ってきなさい!」と親は言いました。
「お父さんはいつも怒ってる!」と子どもは言いました。
本当は「朝早く自分で起きて頑張ってるんだよ」というのが子どもの「メッセージ」だったようなのですが、「標示」がちょっと微妙すぎ、また父親の想像力も足りなかったようです。
こんな例も考えられます。
期末テストで、子どもの不得意教科の点数が、どういうわけか今までにないほど良い点数でした。
子どもは親に得意そうに報告しました。
しかし、親は「他の教科が悪いから、ならせばいつもと同じだね」と言いました。
「親は子どもの良いところを見つけてほめなくちゃ、子どもはやる気が出ないよ」と子どもはぼやきました。
聖書には「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。
悪者の口は悪を吐き出す」(箴言15:28)と書いてあります。
そうは言っても、心に余裕がなければ答えを思い巡らせない、とお考えになる方は多いと思います。
しかし、むしろ、すぐに反応するのではなく、一瞬思い巡らす癖をつけることの方が、心に余裕をもたらすための助けとなるかもしれません。
文献
宇佐美昇三(1990):異文化理解とレッセージ.海外子女教育研究,118(東京
学芸大学海外子女教育センター).
佐竹 真次
息子が中学生だったころの話です。
私の住まいは田んぼの中にあり、農道が通学路になっています。
道の先はビニールハウスで隠れてしまいますが、手前の100メートルほどは、毎朝通学する小中学生の姿がよく見えます。
ある朝、息子が登校する姿を窓から見ていたら、下をうつむいてトボトボと歩いているのです。元気がなさそうでした。そこで、夕方、息子に聞いてみました。「朝、元気なさそうに下をうつむいて歩いていたけど、何か悩みごとがあるの?勉強が難しい?部活で疲れてる?いじめられてない?」息子が答えました。
「最近、道に犬のうんこがたくさん落ちていてさ、よく下を見てゆっくり歩かないと、うっかり踏んでしまうんだよね。でも、学校はおもしろいよ。」
息子が犬のうんこを踏まないように慎重に歩くことは、無意識の「メッセージ」でした。
私たちの目に映った息子の姿を「標示」としておきましょう。
そして、息子は元気がなく、悩みがあるに違いない、と私が解釈した結果を「レッセージ」と呼ぶことにします。
「レッセージ」とは、“receiver’s message”(受け手が解釈したメッセージ)を短縮した上越教育大学の宇佐美昇三教授の造語です(文献)。
「メッセージ」は常に送り手の心の中にあり、それそのものを見聞きすることはできません。
それは必ず、ことばや行動や記号といった「標示」の形で表現されます。
私たちは自分が経験したことのある様々な枠組みをその「標示」にあてはめてみて、とりあえず最も妥当と思われる「レッセージ」を作るのです。
ですから、もし、私たちが一度も経験したことのない外国の不思議な習慣を目にしたら、解釈に使える枠組みを一つも持たないために、妥当な「レッセージ」を作ることはほとんどできないのです。
無理に想像した「レッセージ」はことごとく誤解や勘違いになるはずです。
私たちの日常生活では、相手の「標示」を自分の経験的枠組みに慎重に照らして導き出した「レッセージ」が、相手の「メッセージ」と一致している場合が多く、そのようなときは、お互いに理解し合っているという実感を共有できます。
しかしながら、「レッセージ」が「メッセージ」と一致しない場合も少なくありません。
たとえば、以下のような例が考えられます。
ある朝の6時に、珍しく目覚まし時計が鳴る前に子どもが起きたとします。
子どもは「眠気が覚める方法ない?」と親に聞きました。
「顔を洗ってきなさい!」と親は言いました。
「お父さんはいつも怒ってる!」と子どもは言いました。
本当は「朝早く自分で起きて頑張ってるんだよ」というのが子どもの「メッセージ」だったようなのですが、「標示」がちょっと微妙すぎ、また父親の想像力も足りなかったようです。
こんな例も考えられます。
期末テストで、子どもの不得意教科の点数が、どういうわけか今までにないほど良い点数でした。
子どもは親に得意そうに報告しました。
しかし、親は「他の教科が悪いから、ならせばいつもと同じだね」と言いました。
「親は子どもの良いところを見つけてほめなくちゃ、子どもはやる気が出ないよ」と子どもはぼやきました。
聖書には「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。
悪者の口は悪を吐き出す」(箴言15:28)と書いてあります。
そうは言っても、心に余裕がなければ答えを思い巡らせない、とお考えになる方は多いと思います。
しかし、むしろ、すぐに反応するのではなく、一瞬思い巡らす癖をつけることの方が、心に余裕をもたらすための助けとなるかもしれません。
文献
宇佐美昇三(1990):異文化理解とレッセージ.海外子女教育研究,118(東京
学芸大学海外子女教育センター).
by ybible63
| 2006-03-22 14:30
| ★教育シリーズ(子育て)