2006年 03月 23日
教育シリーズ 第9回 |
*文章中に登場するすべての事例は、個人情報保護の関係で実在の人物そのものではありませんが、著者が取材した多くの人々からヒントを得て新たに創作したものです。
五人の夫の子どもたちは?
佐竹 真次
イエス様がヤコブの井戸のところで、サマリヤ人の女に「永遠のいのちへの水」について話されたときのことです。
イエス様とその女との間にはこのような会話がありました。
「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』
女は答えて言った。『私には夫はありません。』
イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」(ヨハネ4:15-18)
サマリヤ人の間では離婚が認められていたのかどうかわかりませんが、5人の夫とつぎつぎと死別したというのも不自然に思われます。
いずれにしても、この女性が安定した家庭を築いてきたとはとても考えにくいのです。
聖書には書かれていませんが、これまでの5人の夫および現在の同棲者との間には、子どもは一人もいなかったのでしょうか?
常識的に考えれば、何人かの子どもがいても決して不思議ではありません。
その子どもたちは、いったいどんな気持ちで成長していたのでしょうか。
非行と怠学が問題になっている一人の少女と出会いました。
初対面のとき「お母さんにとっては3人目のお父さんの子です」と微笑みながら自己紹介してくれました。
しかし、母親は祖母との折り合いがわるく、少女が中1のとき離婚し、まもなく別の男性と再婚しました。
母親が出て行った直後、少女は母親に会いたくて、母親の荷物にまぎれていた自分の体操着を持ってきてと電話で頼みました。
母親は朝早く黙って体操着を玄関前に置いて行ったのだそうです。
少女は当然、泣いて悔しがりました。
父親は家庭に関知せず、祖母が一家を切り盛りしていました。
少女の姉はすでにいろいろな男性と同棲していました。
少女は中学校に来たり来なかったりで、調子の悪いときには他人に当たり散らしたり被害妄想的になったりしました。
少女は不良グループのこと、彼氏のこと、喫煙のことなどを淡々と語ってくれました。
こういったグループが少女の自尊心をかろうじて支えているのかな?とも思わせられました。
「こんなにいい子をなんで捨てちゃうの?」と、私が少女の母親に対して憤りを覚えたときです。養護教諭の先生が「○ちゃんのお母さんは母親として生きることより女として生きることを選んでいるみたいなのよ。
だから私も、□先生も、◇先生も、△先生も、▽先生も、みーんな○ちゃんのお母さん代わりをやってあげているのよ」と教えてくれました。
少女は中3になって、遅刻・早退は多くても出席だけはしていたので、高校受験にも何とか成功しました。
進学が決まったとき、少女はうれしそうに報告してくれました。
別の学校のある少女は、4人目の夫の子どもでした。
経過は先の少女とそっくりですが、もう少し繊細な感じの子でした。
少女のお母さんは、今の夫に内緒で1週間に1回、10分間だけ彼女に会ってくれていました。少女が会いに行くと「あー、来たのー?」と笑顔で優しく言ってくれるのだそうです。
「そのときが一番うれしいときです」と彼女は教えてくれました。
しかし、学校生活では自信がもてなくて一般学級に入れず、毎日保健室で過ごしていました。やっぱり養護教諭の先生が同じように「みーんな●ちゃんのお母さんがわりをやってあげているわ」と教えてくれました。
保健室で自習を続けていた少女は、幸運にも良い高校に合格しました。
父親も母親も、家庭の外にどんなに心惹かれるものがあったとしても、わが子との絆を放棄しないでほしいというのが、私の願いです。
絆を放棄してしまったら、かならず子どもの心に大きなダメージを与えてしまうことになります。
しかしながら、放棄してしまった母親の過去をとがめ立てせずに、むしろその子どもを温かく受け容れている人々の姿を見たときに、私は何とも言えない安堵感を覚えると同時に、一時憤った自分を恥ずかしくさえ思いました。
「私には夫はありません」と言ったサマリヤの女に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と優しくおっしゃられたイエス様のふところの広さと共通のものを、これらの人々の姿勢の中にふと感じたからなのかもしれません。
五人の夫の子どもたちは?
佐竹 真次
イエス様がヤコブの井戸のところで、サマリヤ人の女に「永遠のいのちへの水」について話されたときのことです。
イエス様とその女との間にはこのような会話がありました。
「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』
女は答えて言った。『私には夫はありません。』
イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」(ヨハネ4:15-18)
サマリヤ人の間では離婚が認められていたのかどうかわかりませんが、5人の夫とつぎつぎと死別したというのも不自然に思われます。
いずれにしても、この女性が安定した家庭を築いてきたとはとても考えにくいのです。
聖書には書かれていませんが、これまでの5人の夫および現在の同棲者との間には、子どもは一人もいなかったのでしょうか?
常識的に考えれば、何人かの子どもがいても決して不思議ではありません。
その子どもたちは、いったいどんな気持ちで成長していたのでしょうか。
非行と怠学が問題になっている一人の少女と出会いました。
初対面のとき「お母さんにとっては3人目のお父さんの子です」と微笑みながら自己紹介してくれました。
しかし、母親は祖母との折り合いがわるく、少女が中1のとき離婚し、まもなく別の男性と再婚しました。
母親が出て行った直後、少女は母親に会いたくて、母親の荷物にまぎれていた自分の体操着を持ってきてと電話で頼みました。
母親は朝早く黙って体操着を玄関前に置いて行ったのだそうです。
少女は当然、泣いて悔しがりました。
父親は家庭に関知せず、祖母が一家を切り盛りしていました。
少女の姉はすでにいろいろな男性と同棲していました。
少女は中学校に来たり来なかったりで、調子の悪いときには他人に当たり散らしたり被害妄想的になったりしました。
少女は不良グループのこと、彼氏のこと、喫煙のことなどを淡々と語ってくれました。
こういったグループが少女の自尊心をかろうじて支えているのかな?とも思わせられました。
「こんなにいい子をなんで捨てちゃうの?」と、私が少女の母親に対して憤りを覚えたときです。養護教諭の先生が「○ちゃんのお母さんは母親として生きることより女として生きることを選んでいるみたいなのよ。
だから私も、□先生も、◇先生も、△先生も、▽先生も、みーんな○ちゃんのお母さん代わりをやってあげているのよ」と教えてくれました。
少女は中3になって、遅刻・早退は多くても出席だけはしていたので、高校受験にも何とか成功しました。
進学が決まったとき、少女はうれしそうに報告してくれました。
別の学校のある少女は、4人目の夫の子どもでした。
経過は先の少女とそっくりですが、もう少し繊細な感じの子でした。
少女のお母さんは、今の夫に内緒で1週間に1回、10分間だけ彼女に会ってくれていました。少女が会いに行くと「あー、来たのー?」と笑顔で優しく言ってくれるのだそうです。
「そのときが一番うれしいときです」と彼女は教えてくれました。
しかし、学校生活では自信がもてなくて一般学級に入れず、毎日保健室で過ごしていました。やっぱり養護教諭の先生が同じように「みーんな●ちゃんのお母さんがわりをやってあげているわ」と教えてくれました。
保健室で自習を続けていた少女は、幸運にも良い高校に合格しました。
父親も母親も、家庭の外にどんなに心惹かれるものがあったとしても、わが子との絆を放棄しないでほしいというのが、私の願いです。
絆を放棄してしまったら、かならず子どもの心に大きなダメージを与えてしまうことになります。
しかしながら、放棄してしまった母親の過去をとがめ立てせずに、むしろその子どもを温かく受け容れている人々の姿を見たときに、私は何とも言えない安堵感を覚えると同時に、一時憤った自分を恥ずかしくさえ思いました。
「私には夫はありません」と言ったサマリヤの女に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と優しくおっしゃられたイエス様のふところの広さと共通のものを、これらの人々の姿勢の中にふと感じたからなのかもしれません。
by ybible63
| 2006-03-23 09:55
| ★教育シリーズ(子育て)