2006年 01月 10日
教育シリーズ 第6回 |
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。
何をしているのか自分でわからないのです
佐竹 真次
前回は、人生を台無しにしないための内なる指導者を、子どもの心の中にどのように育てたらよいかというお話をしました。
今回は、親が子どもの人生を台無しにしかかったできごとについてお話しします。
近年、さまざまな暴行事件の被害者の後遺症を説明する用語として、PTSDということばが頻繁に用いられるようになりました(文献)。
PTSDとは「ポストトラウマティック・ストレス・ディスオーダー」の略で、日本語では「外傷後ストレス障害」といわれます。
戦争体験、性暴力被害、他の暴力被害、誘拐や監禁の体験、虐待被害、災害体験、突然死の目撃体験などが極度のストレス因子となり、しばらく後になって強い恐怖、不眠、無力感、戦慄などの反応が現れる障害です。
ある青年と話しました。彼女は明るくて友達も多く健康そうな若者ですが、不眠に悩まされ、うなされて起きるときまって首を自分の手で押さえているというのです。
日中もいつのまにかぼんやりしていることがあり、歩いていても人や車にぶつかったりすることがあるといいます。
また、人に気に入られたくて頑張りすぎ、一人になったあとは一度に疲れが出るといいます。
首を自分の手で押さえるということが気になり、思い当たるところを聞いてみました。
昔から父親が酒乱で暴力をふるったこと、自分が父親のその酒癖を批判したところ突然首を絞められて、母が助けてくれたが死ぬほどの恐怖感を味わったこと、酔った父親から性的虐待に近い扱いを受けたことなどを話してくれました。
このような外傷体験がストレス因子となってPTSDのような症状が現れているのではないかと推測されました。
「よく話してくれたね。つらかったでしょう」とことばをかけると、おもむろに大粒の涙を流しながら絞り出すような声で泣き出しました。
しばらくして落ち着いた彼女はさらに話しました。
父親は恐ろしい存在だったが、しらふのときにはめったに暴力を振るわなかったといいます。
また、その父親に気に入られようと無理に明るく振舞ったといいます。
さらに、ここ数年、歳のせいか父親は気持ち悪いほど優しくなり、父母の仲もよくなってきたといいます。
そして、父親が「昔は悪いことしたね」と漠然としたかたちで謝罪をしてくれたといいます。
そのため、今更かつてのことについて父親を非難する気にはなれないといいます。
しかし、それだけに、父親のかつての行為が情けなく、赦しがたく、あまりにも苦しいといいます。
その苦しみから逃れるために、自分も情けない人間になればいいと思い、援助交際をして自分自身を汚れたものにおとしめようとも考えたといいます。
人の罪を赦せないのでいっそのこと自分も罪人になってしまおう、という発想はわかるような気がします。
罪深い父親と同様に自分も罪深くなれば、相対的に父親の罪が軽くなったように錯覚でき、気持ちの上では楽になれるように思えたのかもしれません。
今のとりあえずの安定した家庭状況を壊したくない。
しかし、父親に対する憎しみは重たく心に圧し掛かっている。
この矛盾した二つの感情を一つの心で受け止めざるをえないところに問題の核心はあると思われました。
「援助交際に走らなくて、あなたは立派だったよ。でも、お父さんを赦せないんですね」と言ったところで、実は私はことばに窮してしまいました。
彼女は憎しみと決別したいと考えているのに、その方法がわからないでいる、と私には思われました。
しかし、人を赦すということは、第三者から命令されてできるようなものではありません。
私は心で祈りながらしばらく沈黙を守りました。おもむろに彼女は私の書棚の聖書を見つけ、「神様だったら何て言うでしょうね」と自分から質問してきました。
彼女はクリスチャンではないのに不思議なことです。
私は静かに聖書を開いて、罪がないのに十字架の上で虐待された果てに殺されたイエス様のことを話し、イエス様が言われた「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)ということばを一緒に読みました。
彼女は大きく一呼吸して「イエス様ってすごい方ですね」と言いました。
数週間たって再会のときがきました。父親に対する憎しみが少しずつ薄らいできたといいます。そして、かつては父親の悪い面しか表現できなかったのが、そのときには父親に対して感謝できる点を4つも見つけてきて話してくれました。
睡眠時間が1時間も延びたといいます。人前でも無理に頑張らないようにしたといいます。
私は少しホッとしました。
一方、もう一人の青年の父親は、はじめは励ましてくれるのですが、彼女の歩みが順風満帆になり始めるととたんに罵詈雑言を浴びせるようになるといいます。
それが非常にしつこいので、そのうちに彼女は「自分はやっぱりだめな人間なのではないか」と心配になり、信頼できる他人にときどき「だめでない」ことの確認を求めに来ます。
親が良かれと思いながら子どもを台無しにしかかっていることは割合多く見受けられます。
親自身も深刻な外傷体験やコンプレックスを引きずっていることがありますが、それに振り回されて我が子に不必要な外傷を作らないように気をつけることは重要だと思います。
私自身も失敗の多い者です。自分が幼い頃に受けた暴言を我が子にそのまま吐いている自分を見つけ、愕然とします。
苛立った心で発言したり行為したりするときは、一息おいて、自分がそれを受けたらどういう気持ちになるか、一旦考えた上で表出するようにしてもいいのかもしれません。
「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)
文献
米国精神医学会(1994):DSM-Ⅳ精神疾患の診断・統計マニュアル(高橋三郎・
大野裕・染矢俊幸 訳 1996).医学書院.
何をしているのか自分でわからないのです
佐竹 真次
前回は、人生を台無しにしないための内なる指導者を、子どもの心の中にどのように育てたらよいかというお話をしました。
今回は、親が子どもの人生を台無しにしかかったできごとについてお話しします。
近年、さまざまな暴行事件の被害者の後遺症を説明する用語として、PTSDということばが頻繁に用いられるようになりました(文献)。
PTSDとは「ポストトラウマティック・ストレス・ディスオーダー」の略で、日本語では「外傷後ストレス障害」といわれます。
戦争体験、性暴力被害、他の暴力被害、誘拐や監禁の体験、虐待被害、災害体験、突然死の目撃体験などが極度のストレス因子となり、しばらく後になって強い恐怖、不眠、無力感、戦慄などの反応が現れる障害です。
ある青年と話しました。彼女は明るくて友達も多く健康そうな若者ですが、不眠に悩まされ、うなされて起きるときまって首を自分の手で押さえているというのです。
日中もいつのまにかぼんやりしていることがあり、歩いていても人や車にぶつかったりすることがあるといいます。
また、人に気に入られたくて頑張りすぎ、一人になったあとは一度に疲れが出るといいます。
首を自分の手で押さえるということが気になり、思い当たるところを聞いてみました。
昔から父親が酒乱で暴力をふるったこと、自分が父親のその酒癖を批判したところ突然首を絞められて、母が助けてくれたが死ぬほどの恐怖感を味わったこと、酔った父親から性的虐待に近い扱いを受けたことなどを話してくれました。
このような外傷体験がストレス因子となってPTSDのような症状が現れているのではないかと推測されました。
「よく話してくれたね。つらかったでしょう」とことばをかけると、おもむろに大粒の涙を流しながら絞り出すような声で泣き出しました。
しばらくして落ち着いた彼女はさらに話しました。
父親は恐ろしい存在だったが、しらふのときにはめったに暴力を振るわなかったといいます。
また、その父親に気に入られようと無理に明るく振舞ったといいます。
さらに、ここ数年、歳のせいか父親は気持ち悪いほど優しくなり、父母の仲もよくなってきたといいます。
そして、父親が「昔は悪いことしたね」と漠然としたかたちで謝罪をしてくれたといいます。
そのため、今更かつてのことについて父親を非難する気にはなれないといいます。
しかし、それだけに、父親のかつての行為が情けなく、赦しがたく、あまりにも苦しいといいます。
その苦しみから逃れるために、自分も情けない人間になればいいと思い、援助交際をして自分自身を汚れたものにおとしめようとも考えたといいます。
人の罪を赦せないのでいっそのこと自分も罪人になってしまおう、という発想はわかるような気がします。
罪深い父親と同様に自分も罪深くなれば、相対的に父親の罪が軽くなったように錯覚でき、気持ちの上では楽になれるように思えたのかもしれません。
今のとりあえずの安定した家庭状況を壊したくない。
しかし、父親に対する憎しみは重たく心に圧し掛かっている。
この矛盾した二つの感情を一つの心で受け止めざるをえないところに問題の核心はあると思われました。
「援助交際に走らなくて、あなたは立派だったよ。でも、お父さんを赦せないんですね」と言ったところで、実は私はことばに窮してしまいました。
彼女は憎しみと決別したいと考えているのに、その方法がわからないでいる、と私には思われました。
しかし、人を赦すということは、第三者から命令されてできるようなものではありません。
私は心で祈りながらしばらく沈黙を守りました。おもむろに彼女は私の書棚の聖書を見つけ、「神様だったら何て言うでしょうね」と自分から質問してきました。
彼女はクリスチャンではないのに不思議なことです。
私は静かに聖書を開いて、罪がないのに十字架の上で虐待された果てに殺されたイエス様のことを話し、イエス様が言われた「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)ということばを一緒に読みました。
彼女は大きく一呼吸して「イエス様ってすごい方ですね」と言いました。
数週間たって再会のときがきました。父親に対する憎しみが少しずつ薄らいできたといいます。そして、かつては父親の悪い面しか表現できなかったのが、そのときには父親に対して感謝できる点を4つも見つけてきて話してくれました。
睡眠時間が1時間も延びたといいます。人前でも無理に頑張らないようにしたといいます。
私は少しホッとしました。
一方、もう一人の青年の父親は、はじめは励ましてくれるのですが、彼女の歩みが順風満帆になり始めるととたんに罵詈雑言を浴びせるようになるといいます。
それが非常にしつこいので、そのうちに彼女は「自分はやっぱりだめな人間なのではないか」と心配になり、信頼できる他人にときどき「だめでない」ことの確認を求めに来ます。
親が良かれと思いながら子どもを台無しにしかかっていることは割合多く見受けられます。
親自身も深刻な外傷体験やコンプレックスを引きずっていることがありますが、それに振り回されて我が子に不必要な外傷を作らないように気をつけることは重要だと思います。
私自身も失敗の多い者です。自分が幼い頃に受けた暴言を我が子にそのまま吐いている自分を見つけ、愕然とします。
苛立った心で発言したり行為したりするときは、一息おいて、自分がそれを受けたらどういう気持ちになるか、一旦考えた上で表出するようにしてもいいのかもしれません。
「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)
文献
米国精神医学会(1994):DSM-Ⅳ精神疾患の診断・統計マニュアル(高橋三郎・
大野裕・染矢俊幸 訳 1996).医学書院.
by ybible63
| 2006-01-10 01:51
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