2006年 01月 10日
教育シリーズ 第5回 |
人生を台無しにしないための内なる指導者
佐竹 真次
今回は、子どもを育てる上で根本的に重要な、「内なる指導者」の視点についてお話しします。
ある日、一人の青年と話しました。
彼女は、脳卒中後遺症の祖母を父母と三人で介護しているのです。
役割を父母ときちんと分担し、愛情をもって介護にあたっており、何の迷いもなく幸せにやれていると思っていたのだそうです。
しかし、先日、突然祖母に対して殺意を感じ、自分にそんな一面があったことに驚き、一気に自己嫌悪状態になってしまったというのです。
一つの対象に対して抱くこういう矛盾した気持ちを「アンビバレント(両義的)な感情」といいます。
彼女はそれに初めて気づき戸惑ってしまったのです。
私自身も小学生の頃、似たようなことに気づいた覚えがあります。
家族で大型の遊覧船に乗って楽しく観光しているときに、船から海に無性に飛び込みたくなったのです。
何か得体の知れない危険な意志が自分の内側にあって、それが自分を破滅の方向へ突き動かしているように思えたのです。
大好きな弟にわけもなく憎しみを感じ、突然殴りかかって泣かせてしまったこともありました。
似たような経験は数多くあります。
ですから、聖書の中に「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7:19-21)というパウロの言葉を初めて見つけたときに、私は心底合点がいったのです。
数年前、大阪府知事がセクハラ問題で辞任しました。
ベテランの心理臨床家でさえも患者さんとの信頼関係の中でつい高ぶりを抱き、セクハラを犯してしまうという事件が稀に起こります。
長い時間をかけて築き上げた信用が一瞬のうちに崩れ去ってしまうのは実に悲しいことです。人生が台無しという感じです。
この罪の性質をきちんとコントロールするにはどうすればよいのでしょうか。
しかるべき指導者が常に見ていてくれれば大丈夫なのです。
しかし、指導者が常にいるとは限りません。
そこで、自分の内側にこの指導者を心理的存在として育てるという考えを、心理学者は採用します。
このような存在を、精神分析では「超自我(スーパー・エゴ)」、認知心理学では「メタ認知」、発達心理学では「他者視点」、青年心理学では「自我同一性」などと呼んでいます(各立場によってニュアンスは微妙に異なりますが)。
このような心理的指導者を子どもはどのようにして獲得していくのでしょうか。
それは、やはり親の後ろ姿、教師の振る舞い、他の大人や先輩や友達の言動などを模範としたり批判したり、自分自身の行動をその都度人に評価されたり自己評価したりしながら、子ども自身が内面に構築していくのではないかと思います。
先日、警察の補導官の方からこんな話を伺いました。
幼い子どもは善悪をはっきりと区別できないから万引きしてしまうことがよくある。
親はそれを絶好の指導の機会と捉えて、必ず子どもと一緒にお店に謝りに行ってほしい。
親が頭を下げている姿を見て子どもは初めて事の重大さに気づき、二度と同じ間違いをすまいと決心するようになる、と。
しかし現実には、親自身の羞恥心や億劫さの故にうやむやにしてしまい、それが後々まで尾を引くことが多いのだそうです。
内なる心理的指導者を獲得することがいかに難しいかを感じさせられます。
最近洗礼を受けた一人の男子大学生は、洗礼式前のスピーチで「自分は母親から『神様から見られても恥ずかしくない生き方をしなさい』と言われて育ちました。
なかなか難しいけれど、どんなときにもそのことが第一に頭に浮かびます」と話されました。
私はそれを聞いて、彼だけでなく彼のお母さんの姿勢にも感銘を受けました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)という聖書の言葉は、若い頃の私にはちょっとプレッシャーを感じさせる言葉でした。
しかし、社会的責任や家族に対する責任が増して間違いが許されなくなり、まるで自分の心身が自分だけのものでなくなってしまったかのような今、聖書のこの言葉は私にとってプレッシャーどころか、鎧や盾のように頼もしく心に響く言葉となっているのです。
親は子どもの成長と成功を夢見るものです。
しかし、子どもが将来人生を台無しにしてしまうかもしれないという危険性にはほとんど気づきません。
規範の曖昧になっている現代にあってはなおさら、内なる指導者を獲得させるために親の果たすべき責任は大きいのです。
その内なる指導者の育成を心理発達や教育という人間の言葉だけに委ねるか、あるいは、それらをも含めて第一に神の言葉に委ねるか、親として真剣に考えてみてもいいのかもしれません。
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。

佐竹 真次
今回は、子どもを育てる上で根本的に重要な、「内なる指導者」の視点についてお話しします。
ある日、一人の青年と話しました。
彼女は、脳卒中後遺症の祖母を父母と三人で介護しているのです。
役割を父母ときちんと分担し、愛情をもって介護にあたっており、何の迷いもなく幸せにやれていると思っていたのだそうです。
しかし、先日、突然祖母に対して殺意を感じ、自分にそんな一面があったことに驚き、一気に自己嫌悪状態になってしまったというのです。
一つの対象に対して抱くこういう矛盾した気持ちを「アンビバレント(両義的)な感情」といいます。
彼女はそれに初めて気づき戸惑ってしまったのです。
私自身も小学生の頃、似たようなことに気づいた覚えがあります。
家族で大型の遊覧船に乗って楽しく観光しているときに、船から海に無性に飛び込みたくなったのです。
何か得体の知れない危険な意志が自分の内側にあって、それが自分を破滅の方向へ突き動かしているように思えたのです。
大好きな弟にわけもなく憎しみを感じ、突然殴りかかって泣かせてしまったこともありました。
似たような経験は数多くあります。
ですから、聖書の中に「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」(ローマ7:19-21)というパウロの言葉を初めて見つけたときに、私は心底合点がいったのです。
数年前、大阪府知事がセクハラ問題で辞任しました。
ベテランの心理臨床家でさえも患者さんとの信頼関係の中でつい高ぶりを抱き、セクハラを犯してしまうという事件が稀に起こります。
長い時間をかけて築き上げた信用が一瞬のうちに崩れ去ってしまうのは実に悲しいことです。人生が台無しという感じです。
この罪の性質をきちんとコントロールするにはどうすればよいのでしょうか。
しかるべき指導者が常に見ていてくれれば大丈夫なのです。
しかし、指導者が常にいるとは限りません。
そこで、自分の内側にこの指導者を心理的存在として育てるという考えを、心理学者は採用します。
このような存在を、精神分析では「超自我(スーパー・エゴ)」、認知心理学では「メタ認知」、発達心理学では「他者視点」、青年心理学では「自我同一性」などと呼んでいます(各立場によってニュアンスは微妙に異なりますが)。
このような心理的指導者を子どもはどのようにして獲得していくのでしょうか。
それは、やはり親の後ろ姿、教師の振る舞い、他の大人や先輩や友達の言動などを模範としたり批判したり、自分自身の行動をその都度人に評価されたり自己評価したりしながら、子ども自身が内面に構築していくのではないかと思います。
先日、警察の補導官の方からこんな話を伺いました。
幼い子どもは善悪をはっきりと区別できないから万引きしてしまうことがよくある。
親はそれを絶好の指導の機会と捉えて、必ず子どもと一緒にお店に謝りに行ってほしい。
親が頭を下げている姿を見て子どもは初めて事の重大さに気づき、二度と同じ間違いをすまいと決心するようになる、と。
しかし現実には、親自身の羞恥心や億劫さの故にうやむやにしてしまい、それが後々まで尾を引くことが多いのだそうです。
内なる心理的指導者を獲得することがいかに難しいかを感じさせられます。
最近洗礼を受けた一人の男子大学生は、洗礼式前のスピーチで「自分は母親から『神様から見られても恥ずかしくない生き方をしなさい』と言われて育ちました。
なかなか難しいけれど、どんなときにもそのことが第一に頭に浮かびます」と話されました。
私はそれを聞いて、彼だけでなく彼のお母さんの姿勢にも感銘を受けました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)という聖書の言葉は、若い頃の私にはちょっとプレッシャーを感じさせる言葉でした。
しかし、社会的責任や家族に対する責任が増して間違いが許されなくなり、まるで自分の心身が自分だけのものでなくなってしまったかのような今、聖書のこの言葉は私にとってプレッシャーどころか、鎧や盾のように頼もしく心に響く言葉となっているのです。
親は子どもの成長と成功を夢見るものです。
しかし、子どもが将来人生を台無しにしてしまうかもしれないという危険性にはほとんど気づきません。
規範の曖昧になっている現代にあってはなおさら、内なる指導者を獲得させるために親の果たすべき責任は大きいのです。
その内なる指導者の育成を心理発達や教育という人間の言葉だけに委ねるか、あるいは、それらをも含めて第一に神の言葉に委ねるか、親として真剣に考えてみてもいいのかもしれません。
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。

by ybible63
| 2006-01-10 15:19
| ★教育シリーズ(子育て)