2006年 01月 09日
教育シリーズ 第8回 |
『不安は平安に至るための道しるべ』
佐竹 真次
「不安」は、誰もが感じており、誰もが嫌いで、誰もがそれを何とかしたいと思っている感情のひとつです。
恐怖という感情は対象がわりあいはっきりとしているのに対して、不安は対象がはっきりとしていない漠然とした恐れの感情であるといわれます。
不安を感じるときには、いらいらや落ち着きのなさや緊張といった精神状態を自覚するものです。
また、不安が強くなると、動悸、息切れ、渇き、発汗、震え、頻尿などのいわゆる自律神経症状もみられることがあります。
ところで、不安は誰でも同じように感じるものなのでしょうか?
夏の冷房の室温をある温度に設定しても暑がる人もいれば寒がる人もいます。
それと同様に、不安の感じ方にも個人差があります。
下の図は、質問紙による不安検査を学生81名に了解を得て実施した結果です。
これを見てみますと、不安をほとんど感じない人から、ほどほどに感じる人、過敏に感じる人までさまざまであることがわかります。
同じ状況でも皆ちがうように感じている、ということが重要なところです。
この検査では、だいたい26~27点以上だと高度の不安を感じる人ということになっています。
神経症の人にこの検査をすると、たいてい得点が非常に高く出てきます。
不安の高さは生まれつきの部分と学習された部分の双方によっていると考えられています。
不安は嫌われることが多いのですが、実は、自己を保存するための危険信号の役割を担ったり、自己のあるべき姿に目を向けさせる指南役を果たしたりするものとして有用であると、プラスに評価される側面もあるのです。
詩篇38篇18節には、「私の罪で私は不安になっています」と書かれています。
神に対しては恐れ(畏れ)を、罪に対しては不安を感じるというのが人間の本来の感性であるように思われます。

大学生の不安検査(MAS)の得点分布
数年前、授業で不安について教える前に、私自身の不安を検査してみました。
予想では、平均並みかそれ以下で不安は高くない方だと思っていました。
しかし、実際に出てきた不安得点は27点で、高度の不安の域にありました。
当初予想していたよりもはるかに高かったのです。
自分自身の不安特性が神経症レベルまで高いということを初めて知ったとき、「そんなはずはない。
自分はけっこう図太い方だと信じてきたではないか」という思いが浮かびました。
しかし、そうはいっても、「他人がどの程度の不安を感じながら生きているものなのかさえ、実のところ知ることはできないのだ」ということにも気づきました。
それとともに、「自分は意外と高い不安をうまくコントロールして生きてきたのだな」という思いがしだいに浮かんでくるようになり、「そんなに努力してきた自分をいたわってやらなくては」と考え直すことにしました。
この不安の高さは、親の厳格なしつけと関係があるかもしれません。
父が若いころは元気がありすぎて、私はよく頭を殴られた記憶があります。
まだ20歳代で店を経営していましたから、いろいろなストレスもあったのでしょう。
母もよく泣かされていました。
食べるのに困るほどではありませんでしたが、欲しい玩具などはあまり買ってもらえませんでした。
そんな父ではありましたが、毎日一生懸命働いて一家を支える背中を見ながら育った私は、父を頼もしく思い尊敬はしていました。
父からスキンシップを受けた記憶はあまりないのですが、それを母の優しさが補っていたように思います。
これといった特技のない、泣き虫で嫉妬深い女性でしたが、子どもに対しては優しく保護的でした。
しかし、尊敬しているけれど恐い父が私をどう評価するだろう、という不安が私の心の奥にいつも横たわっていました。
その不安が、私の高い不安得点に結びついているのではないかとも思えるのです。
もし私の父が過剰に厳格で、母が偏執病的であったら、どうなっていたでしょうか。
ある青年がひどい不安発作に堪えかねて泣きながら訪ねて来たことがありました。
この青年の両親は学歴と世間体に異常な執着心を持ち、青年を幼い頃からがんじがらめにコントロールしてきたといいます。
青年は両親に対する殺意にも近い憎しみを延々と語りました。
この青年の不安得点は40点にも及んでいました。
このとき私はこの青年に妙な親近感を覚えました。
青年に殺意や憎しみという自分の罪深さを重荷に感じさせ、それを吐露しに来させたものはこの高い不安だったのかもしれません。
「私の罪で私は不安になっています」という詩篇のことばのとおりです。
幸い、複数の専門家とサポートチームを組織し、家族にもコンタクトを取り、多回の面接を重ね、今では何とか安定した生活が送れるようになってきました。
不安は有用で重要なものです。
しかし、それが過剰に持続・増強・反復・広汎化されると非合理的で病的な不安になってしまいます。
そうならないためには、親としては、罪のことや歩むべき道については子どもにきちんと指導するとともに、親の見栄としか思えないような不当で過剰なストレスを子どもにかけ続けないことが大切であると思います。
子どもとしては、自分の罪による不安を感じたら悔い改め、キリストに赦しを乞うことです。
それ以外の不安でしたら、緊張する人との対面時間を調節したり、不安を感じないで済む人にときどき相談にのってもらったり、人の顔色を気にし過ぎないようにしたりすることが大切であると思います。
もちろん、不安への対処だけでなく、前節で書いたように、親が子どもの話を「受容」と「共感」の姿勢で傾聴してあげることが最も重要です。
「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。
あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました」(イザヤ38:17)ということばは不安(苦しみ)の意義を見事に教えています。不安は真の平安に至るための道しるべなのかもしれません。
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。
佐竹 真次
「不安」は、誰もが感じており、誰もが嫌いで、誰もがそれを何とかしたいと思っている感情のひとつです。
恐怖という感情は対象がわりあいはっきりとしているのに対して、不安は対象がはっきりとしていない漠然とした恐れの感情であるといわれます。
不安を感じるときには、いらいらや落ち着きのなさや緊張といった精神状態を自覚するものです。
また、不安が強くなると、動悸、息切れ、渇き、発汗、震え、頻尿などのいわゆる自律神経症状もみられることがあります。
ところで、不安は誰でも同じように感じるものなのでしょうか?
夏の冷房の室温をある温度に設定しても暑がる人もいれば寒がる人もいます。
それと同様に、不安の感じ方にも個人差があります。
下の図は、質問紙による不安検査を学生81名に了解を得て実施した結果です。
これを見てみますと、不安をほとんど感じない人から、ほどほどに感じる人、過敏に感じる人までさまざまであることがわかります。
同じ状況でも皆ちがうように感じている、ということが重要なところです。
この検査では、だいたい26~27点以上だと高度の不安を感じる人ということになっています。
神経症の人にこの検査をすると、たいてい得点が非常に高く出てきます。
不安の高さは生まれつきの部分と学習された部分の双方によっていると考えられています。
不安は嫌われることが多いのですが、実は、自己を保存するための危険信号の役割を担ったり、自己のあるべき姿に目を向けさせる指南役を果たしたりするものとして有用であると、プラスに評価される側面もあるのです。
詩篇38篇18節には、「私の罪で私は不安になっています」と書かれています。
神に対しては恐れ(畏れ)を、罪に対しては不安を感じるというのが人間の本来の感性であるように思われます。

大学生の不安検査(MAS)の得点分布
数年前、授業で不安について教える前に、私自身の不安を検査してみました。
予想では、平均並みかそれ以下で不安は高くない方だと思っていました。
しかし、実際に出てきた不安得点は27点で、高度の不安の域にありました。
当初予想していたよりもはるかに高かったのです。
自分自身の不安特性が神経症レベルまで高いということを初めて知ったとき、「そんなはずはない。
自分はけっこう図太い方だと信じてきたではないか」という思いが浮かびました。
しかし、そうはいっても、「他人がどの程度の不安を感じながら生きているものなのかさえ、実のところ知ることはできないのだ」ということにも気づきました。
それとともに、「自分は意外と高い不安をうまくコントロールして生きてきたのだな」という思いがしだいに浮かんでくるようになり、「そんなに努力してきた自分をいたわってやらなくては」と考え直すことにしました。
この不安の高さは、親の厳格なしつけと関係があるかもしれません。
父が若いころは元気がありすぎて、私はよく頭を殴られた記憶があります。
まだ20歳代で店を経営していましたから、いろいろなストレスもあったのでしょう。
母もよく泣かされていました。
食べるのに困るほどではありませんでしたが、欲しい玩具などはあまり買ってもらえませんでした。
そんな父ではありましたが、毎日一生懸命働いて一家を支える背中を見ながら育った私は、父を頼もしく思い尊敬はしていました。
父からスキンシップを受けた記憶はあまりないのですが、それを母の優しさが補っていたように思います。
これといった特技のない、泣き虫で嫉妬深い女性でしたが、子どもに対しては優しく保護的でした。
しかし、尊敬しているけれど恐い父が私をどう評価するだろう、という不安が私の心の奥にいつも横たわっていました。
その不安が、私の高い不安得点に結びついているのではないかとも思えるのです。
もし私の父が過剰に厳格で、母が偏執病的であったら、どうなっていたでしょうか。
ある青年がひどい不安発作に堪えかねて泣きながら訪ねて来たことがありました。
この青年の両親は学歴と世間体に異常な執着心を持ち、青年を幼い頃からがんじがらめにコントロールしてきたといいます。
青年は両親に対する殺意にも近い憎しみを延々と語りました。
この青年の不安得点は40点にも及んでいました。
このとき私はこの青年に妙な親近感を覚えました。
青年に殺意や憎しみという自分の罪深さを重荷に感じさせ、それを吐露しに来させたものはこの高い不安だったのかもしれません。
「私の罪で私は不安になっています」という詩篇のことばのとおりです。
幸い、複数の専門家とサポートチームを組織し、家族にもコンタクトを取り、多回の面接を重ね、今では何とか安定した生活が送れるようになってきました。
不安は有用で重要なものです。
しかし、それが過剰に持続・増強・反復・広汎化されると非合理的で病的な不安になってしまいます。
そうならないためには、親としては、罪のことや歩むべき道については子どもにきちんと指導するとともに、親の見栄としか思えないような不当で過剰なストレスを子どもにかけ続けないことが大切であると思います。
子どもとしては、自分の罪による不安を感じたら悔い改め、キリストに赦しを乞うことです。
それ以外の不安でしたら、緊張する人との対面時間を調節したり、不安を感じないで済む人にときどき相談にのってもらったり、人の顔色を気にし過ぎないようにしたりすることが大切であると思います。
もちろん、不安への対処だけでなく、前節で書いたように、親が子どもの話を「受容」と「共感」の姿勢で傾聴してあげることが最も重要です。
「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。
あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました」(イザヤ38:17)ということばは不安(苦しみ)の意義を見事に教えています。不安は真の平安に至るための道しるべなのかもしれません。
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。

by ybible63
| 2006-01-09 16:30
| ★教育シリーズ(子育て)