2006年 01月 09日
教育シリーズ 第7回 |
『聴くことは時間をささげること』
佐竹 真次
子どもは誰とどれぐらいの時間、親和的コミュニケーションを必要としているのでしょうか。
私の勤務先の大学の1年生に承諾を得て、「小・中・高時代に誰とどれだけの時間、親和的コミュニケーションを持っていましたか」と調査をしたところ、66名から回答が得られました。
客観的な時間測定ではないので、ごくおおざっぱな結果ですが、それを見ますと、小学校時代は1日平均、父と1時間40分、母・祖父母・兄弟姉妹と2時間30分、友達とも2時間30分、先生と40分でした。
中・高時代は父と1時間、母と2時間、祖父母と1時間~1時間20分、兄弟姉妹と1時間30分、先生と40分、友達と3時間以上でした。
中・高でも意外と家族と話していることがわかります。友達との会話は中・高になるにつれて増えてきます。
思春期の子どもたちは外見では明るくおしゃれに振る舞い、ときには大人に強く反抗しながらも、淋しく、繊細で、崩れやすい内面を持っています。
そのような子どもたちにとって、親から話を聴いてもらえることは非常に重要なことです。
最近はカウンセリングばやりで聴き方の技術がいろんな形で紹介されていますが、聴くことの本質は子どもの気持ちをじっくりと聴く時間を提供することなのではないかと私は思っています。
物質主義と効率主義の現代は、心のふれあいの時間を軽視する傾向があるように思います。親は忙しく、また疲れており、家族間の会話も結論だけで済まそうとすることが多いのです。
最悪の場合は一方的な押しつけで終わってしまうこともあります。
しかし、体験のプロセスを聴かなければ人の気持ちは窺い知れないものです。
気持ちとはナイーヴなものですから、気持ちを聴いてもらえなかったり軽くあしらわれたりすれば、それ以降は気持ちを話そうとはしなくなります。

ある男子中学生のお父さんはバリバリの管理職でした。
地域で一番の高校に入れというのがお父さんからの至上命令でした。
彼のお兄さんはすでにその期待に応えられず、高校受験を断念しただけでなく家庭内暴力と非行に明け暮れるようになっていました。
お父さんは彼に「兄では失敗した。今度はおまえの番だな」と言い、本格的に期待をかけ始めました。
はじめのうちは彼も努力しましたが、そのうちに実力が見え始めるようになり、ついに父から「おまえも、これで終わりだな」と言われてしまいました。
次の日から彼は登校を渋るようになりました。
気が弱くて夫に逆らったことのない母親が、彼のことを見ていられなくなり、紹介された専門家に相談に行きました。
数奇な道筋をたどって弁護士となった大平光代さん(文献)が先日テレビに出演し、「非行に走った少年たちのほとんどが、自分自身の心の弱さを認めつつも、『親は世間体ばかりを気にして、子どもの気持ちを本気で聴いてくれたことがなかった』と打ち明けるんです」と話しておられました。
「正直なところ、子どもと話をしても何も面白くない」「仕事で疲れて帰って来るのに、子どもの話を聞くなんてまるで拷問だ」と言う親がいます。
「子どもの話も妻の話もとりとめがなく、聞いているうちに混乱しイライラしてくる」と言う父親もいます。
実を言うと、私も仕事上のプレッシャーを受けているときなどは、そういう思いになることがたびたびあります。しかし、神様から預かった子どもを育てるために親に課せられた時間は、たった18年しかありません。
あっという間の時間です。
子育てを終えられた方々はたいてい「大変だったけど、あの頃が一番よかった」と言われます。
権威に満ちたイエス様も、喜んで子どものために時間をとってあげました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです」(マルコ10:14)と。
ある時間を子どもにささげる決心がつくと、子どもの話を「受容」と「共感」の姿勢で傾聴してあげることがしやすくなります(文献)。
「受容」とは、子どもの感情や気持ちをとがめだてせず、そのまま受け容れることです。
親は自分の価値観から一時離れ、考えを押しつけないことが大切です。
子どもの楽しい体験も辛い体験もつまらない体験も聴きます。
会話の7~8割を子どもの発言が占めるぐらいの感じでいいと思います。
「共感」とは、子どもの気持ちをわかり、気持ちをことばや表情や身振りで伝え返して確認してあげることです。
共感するには、親がよろいをほどいて真実の姿を見せることが必要です。
そうでないと子どもに信頼してもらえません。
悩みを抱えながら生きている姿で子どもに率直に出会ってもいいのです。
パウロは「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)と言いました。
彼は偉い伝道者であると同時に「共感」の天才でもあったと思います。
「受容」と「共感」だけではわがままな子どもになってしまうのでは、と言われることがあります。
しかし、「受容」・「共感」は「黙認」とは違います。
確かに「黙認」ばかりが続いたらわがままな人間になってしまうでしょう。ところが、「受容」と「共感」がうまくいけば人間関係の基盤が安定してきます。
そうなると、今まで避けていた問題や社会的責任と直面できる勇気がわいてきて、大人の意見を聞いたり他人を思いやったり物事を自己決断することができやすくなってきます。
もちろん、子どもの決断が他人や家族に迷惑をかけない限り、また神様に背くものでない限り、親はそれを尊重することが大切です。
文献
大平光代(2000):だから、あなたも生きぬいて.講談社.
真仁田昭・原野広太郎・沢崎達夫(編)(1995):学校カウンセリング辞典.金子書房.
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。
佐竹 真次
子どもは誰とどれぐらいの時間、親和的コミュニケーションを必要としているのでしょうか。
私の勤務先の大学の1年生に承諾を得て、「小・中・高時代に誰とどれだけの時間、親和的コミュニケーションを持っていましたか」と調査をしたところ、66名から回答が得られました。
客観的な時間測定ではないので、ごくおおざっぱな結果ですが、それを見ますと、小学校時代は1日平均、父と1時間40分、母・祖父母・兄弟姉妹と2時間30分、友達とも2時間30分、先生と40分でした。
中・高時代は父と1時間、母と2時間、祖父母と1時間~1時間20分、兄弟姉妹と1時間30分、先生と40分、友達と3時間以上でした。
中・高でも意外と家族と話していることがわかります。友達との会話は中・高になるにつれて増えてきます。
思春期の子どもたちは外見では明るくおしゃれに振る舞い、ときには大人に強く反抗しながらも、淋しく、繊細で、崩れやすい内面を持っています。
そのような子どもたちにとって、親から話を聴いてもらえることは非常に重要なことです。
最近はカウンセリングばやりで聴き方の技術がいろんな形で紹介されていますが、聴くことの本質は子どもの気持ちをじっくりと聴く時間を提供することなのではないかと私は思っています。
物質主義と効率主義の現代は、心のふれあいの時間を軽視する傾向があるように思います。親は忙しく、また疲れており、家族間の会話も結論だけで済まそうとすることが多いのです。
最悪の場合は一方的な押しつけで終わってしまうこともあります。
しかし、体験のプロセスを聴かなければ人の気持ちは窺い知れないものです。
気持ちとはナイーヴなものですから、気持ちを聴いてもらえなかったり軽くあしらわれたりすれば、それ以降は気持ちを話そうとはしなくなります。

ある男子中学生のお父さんはバリバリの管理職でした。
地域で一番の高校に入れというのがお父さんからの至上命令でした。
彼のお兄さんはすでにその期待に応えられず、高校受験を断念しただけでなく家庭内暴力と非行に明け暮れるようになっていました。
お父さんは彼に「兄では失敗した。今度はおまえの番だな」と言い、本格的に期待をかけ始めました。
はじめのうちは彼も努力しましたが、そのうちに実力が見え始めるようになり、ついに父から「おまえも、これで終わりだな」と言われてしまいました。
次の日から彼は登校を渋るようになりました。
気が弱くて夫に逆らったことのない母親が、彼のことを見ていられなくなり、紹介された専門家に相談に行きました。
数奇な道筋をたどって弁護士となった大平光代さん(文献)が先日テレビに出演し、「非行に走った少年たちのほとんどが、自分自身の心の弱さを認めつつも、『親は世間体ばかりを気にして、子どもの気持ちを本気で聴いてくれたことがなかった』と打ち明けるんです」と話しておられました。
「正直なところ、子どもと話をしても何も面白くない」「仕事で疲れて帰って来るのに、子どもの話を聞くなんてまるで拷問だ」と言う親がいます。
「子どもの話も妻の話もとりとめがなく、聞いているうちに混乱しイライラしてくる」と言う父親もいます。
実を言うと、私も仕事上のプレッシャーを受けているときなどは、そういう思いになることがたびたびあります。しかし、神様から預かった子どもを育てるために親に課せられた時間は、たった18年しかありません。
あっという間の時間です。
子育てを終えられた方々はたいてい「大変だったけど、あの頃が一番よかった」と言われます。
権威に満ちたイエス様も、喜んで子どものために時間をとってあげました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです」(マルコ10:14)と。
ある時間を子どもにささげる決心がつくと、子どもの話を「受容」と「共感」の姿勢で傾聴してあげることがしやすくなります(文献)。
「受容」とは、子どもの感情や気持ちをとがめだてせず、そのまま受け容れることです。
親は自分の価値観から一時離れ、考えを押しつけないことが大切です。
子どもの楽しい体験も辛い体験もつまらない体験も聴きます。
会話の7~8割を子どもの発言が占めるぐらいの感じでいいと思います。
「共感」とは、子どもの気持ちをわかり、気持ちをことばや表情や身振りで伝え返して確認してあげることです。
共感するには、親がよろいをほどいて真実の姿を見せることが必要です。
そうでないと子どもに信頼してもらえません。
悩みを抱えながら生きている姿で子どもに率直に出会ってもいいのです。
パウロは「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ12:15)と言いました。
彼は偉い伝道者であると同時に「共感」の天才でもあったと思います。
「受容」と「共感」だけではわがままな子どもになってしまうのでは、と言われることがあります。
しかし、「受容」・「共感」は「黙認」とは違います。
確かに「黙認」ばかりが続いたらわがままな人間になってしまうでしょう。ところが、「受容」と「共感」がうまくいけば人間関係の基盤が安定してきます。
そうなると、今まで避けていた問題や社会的責任と直面できる勇気がわいてきて、大人の意見を聞いたり他人を思いやったり物事を自己決断することができやすくなってきます。
もちろん、子どもの決断が他人や家族に迷惑をかけない限り、また神様に背くものでない限り、親はそれを尊重することが大切です。
文献
大平光代(2000):だから、あなたも生きぬいて.講談社.
真仁田昭・原野広太郎・沢崎達夫(編)(1995):学校カウンセリング辞典.金子書房.
*文章中に登場するすべての事例は、著者が自らの取材に基づいて新たに創作した架空の事例です。

by ybible63
| 2006-01-09 16:37
| ★教育シリーズ(子育て)