6月4日説教要約 |
「一人ひとりが神の国の拡大のために生きる」(イザヤ書6章1~8節) 紺野真和
ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは万軍の主の御座に引き上げられた。セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる」と賛美し、その賛美の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。イザヤは、全身で聖なる万軍の主と出会った。その時、彼は自分が滅んでしまうと思うほどの罪人であることを知った。どうして、彼はそれほど自分の罪を受け止めることができたのか。それは他の人との比較によってではなく、ただ主の聖さの前で自分を見たからである。すると、万軍の主は、イザヤにセラフィムを遣わした。セラフィムは祭壇の上から燃え盛る炭を持って行き、炭をイザヤの唇に触れさせて「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された」と言った。罪赦されたイザヤは、滅びを免れ主と交わる者とされたことに、平安と喜びを感じた事だろう。そのイザヤに主は「だれを、わたしは遣わそう」と言った。イザヤに働きを強制されず、彼の自由意志に任せた。イザヤは、「ここに私がおります。わたしを遣わしてください」と主に献身した。7章以降にイザヤの預言者としての活動が記されている。
新約聖書に照らしてこの箇所を見る。ヨハネはイザヤが見た聖なる、聖なる、聖なる万軍の主とはイエス様のことであると記している(ヨハネ12:41)イザヤが全身で受け止めた聖なる、聖なる、聖なる万軍の主であるイエス様が、人々の罪の赦しのためにセラフィムを遣わすのではなく、2000年前にこの地上に来られたのである。そして、ご自身が全ての人の罪の身代わりになるために十字架に架かられ死なれた。イエス様はご自分を信じる者に、罪の赦しを与えて下さる。私たちは、聖なる主の御前に、滅びてしまうほどの罪人であった。その私たちが尊い犠牲によって罪赦された。今、イザヤに「だれを、わたしは遣わそう」と語られた主は、私たちにも語り掛けておられる。