4月2日説教要約 |
「主の十字架」(マルコ15章33~37節) 牧師 紺野真和
十字架に架かられたイエス様は様々な苦しみを受けられた。まず肉体の苦しみである。イエス様は十字架刑の前に兵士達に鞭で打たれた。鞭は先端に金属や貝殻が付けられていた。打たれると金属が肉に食い込み裂かれ、出血多量で死ぬことがあった。ゴルゴタの丘で、十字架の横木に手首を、縦木に両足を釘で打ち付けられた。またイエス様は十字架で心の苦しみを受けられた。十字架に架かられる前に3年間愛を注いできたイスカリオテ・ユダに裏切られ、またその他の弟子達は自分たちが捕えられることを恐れ離れて行った。十字架上では、野次馬、祭司長、律法学者、共に十字架につけられた者達、そして兵士達に嘲られ罵られた。しかし、これらの苦しみよりはるかに大きな苦しみがイエス様を襲った。イエス様は肉体の苦しみ、心の苦しみのためには叫び声を上げなかったが、この苦しみのためには「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」)と叫び声を上げた。イエス様は、ゲツセマネの園で「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と祈るほど、神様に見捨てられるという苦しみを恐れていた。イエス様は十字架上で苦しまれた。
どうしてイエス様は十字架に架かられたのか。多くの人々は、祭司長、律法学者、パリサイ人達がイエス様を妬み、イエス様を殺すために十字架に架けたのだと考える。しかし聖書はイエス様が十字架に架かられた本当の意味を伝えている。その事を私たちはイエス様の十字架上での叫びから知る事ができる。イエス様は父なる神様に見捨てられるために十字架に架かられたのである。神様と引き離す者は何か。罪である。しかしイエス様は生涯一つの罪も犯されなかった。イエス様は、自分の罪のためにではなく、全人類の罪を十字架で背負われたのである。主は、私たちの罪を背負い私たちの代わりに裁かれて下さったのである。その事によって私たちに罪の赦し、神との平和、神との交わりを与えて下さった。イエス様が浴びせられた罵声は、みな自分を救ってみろであった。イエス様は自分を救えなかったのではない。私たちを救うために自分を救わなかったのである。受難週、イエス様の御苦しみと恵みを覚えよう。