3月26日(日)説教要約 |
「主の心」(マルコ1章40~45節) 牧師 紺野真和
イエス様は権威をもって御言葉を語り、御業をなさることを通して、神の国が到来したことを示した。神の国を見るとは、自分に、教会に、全世界に絶対的な主権者なるイエス様のご支配を見る事である。
イエス様が、山上の説教を語り終え、群衆がイエス様に従っていた時、突然、ひとりのツァラアトの病を持つ人が現われ、イエス様の御許に跪いた。群衆は恐れ離れたが、イエス様は留まった。当時、ユダヤ人にとってツァラアトの病は最も悲惨な病であった。この人は多くの苦しみを背負わされていた。まず肉体の苦しみである。ルカの福音書を見ると、この人は全身ツァラアトであったと記されている。全身を搔きむしり膿んでいたのかもしれない。次に神に見捨てられていたと受け止める苦しみである。当時、みことばの誤った理解から、ツァラアトの病は神の裁きであると考えられていた。この人は、周りから、そしてその人自身も、神に裁かれ、神に見捨てられていると受け止めていた。さらに、この汚れは他の人にうつると考えられていた。なので、ツァラアトの病の人は隔離され、愛する家族、友人と離れ生活することを強いられた。彼は多くの苦しみを背負っていた。イエス様は、他の人々とは違い、彼のもとに留まった。福音書著者マルコはイエス様のこの人に対する御思いを記している。これまで何度もイエス様は癒しの奇跡を行なわれてきたが、ここでマルコは病人に対するイエス様の御思いを記した。イエス様の御思いは憐れみであった。このあわれみという言葉は、単なるかわいそうという思いではなく、内臓が揺れ動くほどの感情である。それは、その人の苦しみ、悲しみを本当に知られた所からくる御思いである。きっとこの人はイエス様が自分のこれまで背負って来た苦しみを全て受け止めて下さっている事を知り心深く慰められた事だろう。イエス様は、彼に手を伸ばして彼に触られた。人々はこのツァラアトの人を軽蔑し、隔離していたが、イエス様は愛を現わされた。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という愛である。神の国とは、イエス様の力だけはなく、愛によるご支配でもある。