1月15日説教要約 |
「一つである教会」(ヨハネ17章20~26節)
牧師 紺野真和
イエス様は、最後の晩餐の終りに弟子たちが、弟子たちを通してご自身を信じた人々が一つになることを祈った。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)。この時、イエス様の脳裏には、これから起こって来るユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一つになるということがあったであろう。ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの子孫であり契約の民であり、異邦人は違うと考え、異邦人に対して優越意識を持っていた。そのような考えがクリスチャンにももたらされた。あるユダヤ人クリスチャンは、異邦人クリスチャンが契約の祝福にあずかるためには割礼を受けなければならいと考えた。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に壁ができた。しかし、神様の御心はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一つになるであった。そのために用いられたのがパウロであった。パウロはこれまで隠されていた奥義を語った。「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです」(エペソ3:6)。
パウロはユダヤ人クリスチャンのみならず、イエス様にあって、異邦人クリスチャンも契約の祝福にあずかる者とされたと語った。そして契約の祝福がもたらされたしるしは、割礼ではなく御霊であるとも伝えた(ローマ2:28,29)。そしてパウロはユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも、男性も女性も、自由人も奴隷も御霊によって一つのキリストのからだに結びつけられたと語った。イエス様の十字架は様々な隔ての壁を乗り越えさせ、御霊を通してイエス様を信じるクリスチャンを一つにしてくださった。この一つである共同体は社会に大きなインパクトを与え人々を神様の許へと導いた。イエス様は父と子が一つであるように、クリスチャンが一つであるようにと祈った。一つであるとは、愛し合う交わりを持つことと共に、目的を共有して行くことである。共に一つになって進んで行こう。