10月20日礼拝説教要旨 |
~先主日(早朝)礼拝メッセージ~
「見えるようになった人」(ヨハネ9章1~12節)
牧師 紺野 真和
イエス様は物乞いをしている盲人をご覧になった。弟子たちは「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と聞いた。当時人々は病気の原因をこのように考えていた。しかしイエス様は「この人に神のわざが現われるためです。」と言われた。イエス様はその盲人の目に泥を塗られ「シロアムの池で洗いなさい。」と言われた。彼がそうすると、神様のわざが現わされ見えるようになった。しかし肉眼が見えるようになったのは神様のわざの始まりに過ぎなかった。目が見えるようになった彼は家に帰り、人々に「イエス様の言われた通りにすると、見えるようになった」と言った。すると人々は「その方はどこにいるのか」と聞いた。その時、彼はイエス様にお礼をしなければならないと思ったであろう。しかし彼はパリサイ人の許に連れて行かれ、彼らから「あなたはイエスをどう思うか」と問われた。この問いは、彼を、恵みを喜び恵みを与えて下さった方に感謝する次元からイエス様はどなたなのかと考える次元に引き上げた。彼はイエス様が預言者であると受け止めた。その後、彼はイエス様が神様に遣わされた方であるとパリサイ人に主張したため町から追放された。すると彼の許にイエス様が来られ「あなたは人の子を信じますか」と言われた。彼が「その人はどなたですか」と聞くと、イエス様は「あなたと話しているのが、その人です」と言われた。私たちは、当時、人々が「人の子」をどのように理解していたのかを徹底して調べる必要がある。なぜなら、それは私たちがイエス様をどのように信じることが求められているかを知ることであるからだ。私が「人の子」で思い浮かべるのはダニエル書7章13節、14節である。そこにある「人の子」とは主の主、王の王である。この人は、心の目が開かれイエス様を王の王、主の主として知った。