9月22日説教要旨 |
~召天者記念礼拝メッセージ~
「主にある希望」(ヨハネ11章17~44節)
牧師 紺野 真和
この地上で最も悲しいことは愛する者との死別である。古今東西多くの人がこの悲しみを背負って来た。
マルタとマリアもその悲しみを負った。彼女たちは深く愛していた弟ラザロを失った。その時彼女たちの悲痛な声が家中に響き、彼女たちは涙に暮れて過ごした。マルタ、マリア、ラザロ兄弟を愛していたイエス様がこの村に来られた。マリアはイエス様に「もしあなたがいてくださったら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言った。その後イエス様は涙を流された。イエス様は愛するラザロが亡くなったことを深く悲しみ涙された。イエス様は、ラザロが生き返ることが分かっていたのに、また将来蘇ることが分かっていたのに涙を流された。ラザロの死を悼んだのである。そしてマリアの側で涙を流された。今日も同じである。創造主であるイエス様は全ての人を愛しておられる。その愛する一人の人が亡くなる時、その死を深く悼まれる。死別の悲しみに打ちひしがれる時に、共に涙してくださるイエス様の御顔を仰ぎ見よう。その後、イエス様はラザロが埋葬されたお墓の前に立ち、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。するとラザロが生き返り、墓から出て来た。その光景を見たマルタとマリアは、驚きに包まれただろう、そしてどんなに喜んだことか。彼女たちの目の涙は、悲しみの涙から歓喜の涙へと変えられた。彼女たちは深く悲しんだ分、大きな喜びに満たされた。この事は私たちに何を示しているのか。将来、主にある者が復活するという事である。そして天国で新しい体を持って再会するという事である。今、私たちは先に召された愛する人がこの地上にいないことで、寂しさを覚えている。しかし、その悲しみ、寂しさは、将来喜びに変えられる。