5月26日説教要旨 |
<Ⅰテモテ2:1~7>
祈れる特権に励む
牧師 鳥居 完次
パウロはなぜ愛弟子テモテへ、「何よりもまず祈る」ことを勧めているのか。祈りの真の意味をテモテと共有していたからであろう。では、パウロは祈りをどう受け止めていたのか。
1.祈りとは神に喜ばれること<2:3>。とは言え、当初パウロにとっての祈りは、熱心さこそが神に喜ばれる祈りと思っていたようである。人一倍熱心なユダヤ教徒<ガラテヤ1:14>、パリサイ人<ピリピ3:4~5>であったパウロの祈り、結局それはどこまで行っても人間的なわざであり、神を冒瀆するものですらあった<1:13>。故に、パウロはその受けた「あわれみ(真実の愛)」を、主イエス・キリストを通して 徹底的に知らされたのである。
2.神と人との間に「真実の愛」を送り届けて下さるために、唯一その仲介の労をとってくださったお方を通して、今や私たちは、神に喜ばれる祈りをすることができるようになった<2:5>。律法に従って、罪の赦しのためのいけにえの血をどんなに熱心にふりかけても、罪によって汚れた良心を完全にきよめることは誰もできない。しかし、その汚れた良心を完全にきよめることのできる唯一のお方主イエス・キリストが、まことの大祭司(神と人との仲介者)として、十字架の上で、傷のないご自身の血を流されたことによって、私たち罪人の汚れた良心がきよめられる道が完成したのである<ヘブル10:20~22>。故に、今や 私たちは、まさに神に受け入れられ喜ばれる神のとの交わり(祈り)をすることができる。その意味で、祈りとは義務ではなく、神と人との唯一まことの仲介者イエス・キリストのとりなしによって祈ることができる権利(特権)なのである。このすばらしい特権に励んでいきたい。