5月5日説教要旨 |
「まことの礼拝者」(ヨハネ4章16節~26節)
牧師 紺野 真和
画期的な訳である。聖書新改訳2017は「真の礼拝者が、御霊と真理よって父を礼拝する時が来ます」と訳した。これまでは「霊とまことによって」であった。「霊」という言葉で、私たちは人間の生命の源である「霊」をイメージしていたのではないか。この原語は人間の霊とも神様の霊(御霊)とも訳せる言葉であり、今回文脈から御霊と訳した。このことで私たちに、新しい理解が与えられる。人間の霊であれば、真の礼拝は一生懸命奉げられる礼拝となるが、御霊であれば、真の礼拝は御霊(聖霊)が内住した者の礼拝となる。それでは、いつ聖霊はこの地上に来られたのか。2000年前のペンテコステの日である。すなわち真の礼拝は2000年前に始まったということになる。それまでの旧約の礼拝はどう受け止められるのか。ヘブル書の記者は「影」とか「模型」と言う。例えば、旧約時代の犠牲は、イエス様の十字架と復活を指し示すもの、本物の模型、影であった。「雄牛と雄やぎの血は罪を取り除くことができない」(ヘブル10章4節)とある。神殿礼拝も同じであったのであろう。真の礼拝が捧げられるまでの、本物の模型だったのだろう。もちろん、神様はその礼拝を受け止められていたが。しかし2000年前に聖霊降臨によって、真の礼拝が始まった。アダムとエバが罪を犯してから、何千年、何万年経過しているのかは分からないが、神様はその時を待ち望んでいた。しかし、ついに時が来たのである。真の礼拝は神様にとってどんなに喜びであるか。私たちはすばらしい恵みの時代に生きている。旧約聖書のモーセやダビデでさえもこのような特権には預かっていなかった。このすばらしい恵みを受け止める時、私たちは心からの礼拝を捧げるようになる。この大切な事を今年一年間心に刻もう。