3月10日説教要旨 |
牧師 鳥居 完次
ピリピ書はパウロの「獄中書簡」であるが、「喜びの手紙」でもある。では、その「喜び」を共有する(できる)原動力はどこにあるのか。その根拠となるみことばが<2:13>にある。
1.神は、みこころのままに志を立てさせ、事を行わせてくださる。実はこれは、本来私たち人間が創造されたときの姿であった。しかし、罪によってもはや自力でみこころを行えない私たちのために遣わされた神の救い主キリストは、十字架のみわざを通して神のみこころにかなった完全な意志と行いによって私たちの罪を贖い、完全な救い主となられた<2:6~11>。そのキリストの復活のいのちを心に受け入れることによって、回復の道が実現した。
2.神は、うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる。とは言え、やることなすことすべてがみこころにかなって完全にできるようになったのではない<3:10~12>。では「完全を得るように」と私たちのうちに働いているキリストの力とは、具体的にどういう力か。その「力」には、元々二つの専門的用法がある。①薬の「効果のある作用」と、②外科の「手術をする」という意味。その意味では、①すべての理解を超えた神の平安に導かれる祈りの力<4:6~7>と、②心に痛みをも伴う神のみことばの力<ヘブル4:12>に重なっているようだ。いずれにしても、信仰者の判断と行いが常に正当化されるわけではない。しかし、根本において主の前にへりくだって祈り求める者に、キリストはうちから働いて強め励まし神ご自身の平安で満たして下さり、その中で更に新たな志を立てさせて下さる。みことばの光が差し込んで、一歩ずつでも踏み出すことができるように導き続けてくださるのである。