1月27日説教要旨 |
牧師 鳥居 完次
<Ⅱコリ>が扱っていることは、個人的な問題である。パウロ自身が、数々の患難・苦難の中でも落胆する必要がない理由は何か。サタンの支配からキリストの中に入り<5:17>、「この宝(キリスト)を土の器の中に入れて(入っている)」<4:7>ことによる変化である。
1.自分と神との関係における変化。自分の本来あるべき姿を確認させられることである。即ち、土地のちりから造られ、その鼻に吹き込まれたいのちの息は、まさに「キリストのいのち」であったが、罪故にそのいのちを失った。然るに、キリストの十字架と復活の贖いによって、いのちの光を回復できる道が与えられた。素直にキリストの愛の中に入った者は、土の器からキリストのいのちの光が輝き出る祝福に与った(ている)ことがわかるのである。
2.自分とその周りに起こる出来事との関係における変化。それにしても、キリストのいのちを宿している「土の器」には、当然のごとくひび割れがある。しかも、そのひびの数も量も、年ごとに増え続けていく。しかし、それでも内なるキリストの御霊によってひび割れの修復がなされ続け、更には心にキリストご自身が占める割合も増え続けていく恵みを味わえることも確かである。とは言え、「土の器」が壊れるときが必ず来る。しかし、このときこそ死に対する完全勝利、即ち、キリストのいのちが私たちのからだを通して文字通り完全に現れることを、信仰の目を通して知る(見る)ことができる<5:1>。それ故に、今、確かに私たちはこの世にあって様々な問題、悩み、痛み、試練に会う。が、窮することはない。行き詰ることはない。決して落胆する必要がないことを、しっかりと確認し続けていきたい。