12月23日説教要約 |
牧師 鳥居 完次
十字架に向かう直前のイエス・キリストの祈り<ヨハネ17章>は、クリスマスの愛がどういうものか(弟子たち、私たちに)分かってほしいと願っておられる神の思いの共有である。
1.「あなたがわたしを遣わされたこと」を知ってほしい<23>。主イエスの地上の言動は、実にそのためであったことがわかる(死んだラザロのよみがえり等)。が、今の私たちにとっての「しるし」は、万物の創造主・神が御子をこの世に遣わされた事実に他ならない。即ち、主イエス・キリストというクリスマスプレゼントが、歴史を支配しておられる唯一まことの神の主権のもとに起こった歴史の事実であることを知ることである。キリスト誕生の日を特定することはできないが、今や、その日があったことは紛れもない客観的事実である。
2.「わたしを愛されたように彼らも愛されたこと」を知ってほしい<23>。神の愛である主イエス・キリストというクリスマスプレゼントが贈られたわけは、偏に、まことの神の愛が直接この世に及ぶためであった。換言すると、神の愛を一番よく知っている主イエス・キリストが、その神の愛が見える形で、まさに人格的存在として送り届けられたのである。そして、その愛が、主イエスの十字架と復活という歴史的出来事を通して、「永遠のいのち」という見える形で表されたのである。キリストを十字架につける裁定を下したポンテオ・ピラトは、福音書以外の一般の歴史書にも登場する名である(タキトウス『年代記』)。神の切なる願いは、「クリスマスプレゼント(永遠のいのち)は、神が歴史に直接介入されたことによって、神の愛が見える形でもたらされた事実であることをしっかりと知る」ことである。