12月16日説教要約 |
「すばらしい贈りもの」(ヨハネ3章16節)
牧師 紺野 真和
クリスマスは、神様がすばらしい贈りものを私たちに下さった日である。神様は私たちを滅びから救うために御子を下さった。神様は最も愛する御子を十字架につけ、完全に見捨てられ、ほふられた。神様が私たちのために払われた犠牲はとても大きいものである。この犠牲の大きさを覚える時に私たちはどのような思いになるか。「私なんかのためにそんなことしないでください」とか、「神様本当に申し訳ありません」という思いになるのではないか。(救命胴衣を着けている人が、おぼれている私のために「自分が着けている救命胴衣をあげます」と言われたらどのように思うだろうか。)そのように思う私たちが考えなければならないことがある。神様は私たちに御子を捧げたくなかったけれども、我慢して捧げられたのか。神様は人間が救われるためにはこの方法しかないから仕方なく御子を捧げられたのか。神様は、ただ苦しい、悲しい、つらいという悲壮感一杯で御子を捧げられたのか。もしそうであるなら、私たちは神様の贈りものを受け取ることを躊躇してしまうであろう。神様はそのような思いで御子を捧げられたのではない。神様は、自ら進んで、喜んで御子を捧げて下さったのである。神様は、私たちが滅びから救われ、ご自身と親しい愛の交わりを持つことを覚え喜び、御子を裁かれた後に、三日後に蘇らせ、神の右の座に着座させ、御子が全世界で王の王、主の主としてほめたたえられることを覚え喜び、私たちに御子を捧げて下さったのである。神様は御子を愛する故に、私たちを愛する故に、自ら進んであふれるばかりの愛をもって御子を捧げて下さった。だから私たちは神様の贈りものを喜んで受け取ることができる。クリスマスの讃美歌の歌詞はみな喜びである。