2018年 11月 13日
10月14日説教要約 |
牧師 鳥居 完次
四福音書には、御霊が見せようとされる主イエスの、より完全な姿が描き出されている。ルカ19章に、キリストがザアカイを救うため、まさに人の子(人間)として来られた姿を見る。
1.主イエスが人の子として来られたのは、失われた者を捜して救うため。ザアカイの劇的な救いの出来ごとに導かれる布石として、15章のルカ特有のたとえ話に注目させられる。100匹の羊の失った1匹が見つかった話し、10枚の銀貨の失った1枚が見つかった話し、二人の息子のいなくなっていた一人が見つかった話しは、ザアカイの救いに焦点が合っていく。
2.主イエスが人の子として来られたのは、ザアカイ一人を救うため。キリストの十字架の意味はそこにある。事実、主イエスはたった一人のために十字架にかかられた。その名はバラバか?しかし、ルカはバラバの名を伏せており、バラバの身代わりではないことを暗示している。真の意味で主が十字架で身代わりになったのは、キリストとともに十字架につけられた二人の強盗の悔い改めた一人である。特にルカは、その時の様子を克明に記しており、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」<23:43>と宣言された。それ故に、ザアカイの劇的回心時にザアカイに語られた「今日、救いがこの家に来ました」<19:9>は、まさにその先取り宣言であった。確かに、主イエス・キリストはたった一人の失われた者・ザアカイのために身代わりに十字架にかかって死ぬために、この世に人の子(人間)として来られたことをはっきりと知ることができる。しかし、それはこの「私」というたった一人の失われた者のためであったことが分かる。主イエスの十字架の愛を、心から感謝したい。
by ybible63
| 2018-11-13 11:31