2018年 07月 31日
7月22日説教要旨 |
牧師 鳥居 完次
聖書は「愛の書」、どこを開いても「愛」が登場。その事実を<創世記>から順に一書ずつ確かめて来、旧約最後の<マラキ書>。まさに開口一番「愛」の告白である<1:1~2a>。
1.歴史を振り返っての罪の現実とさばきのメッセージ<1~2章>。これまでの歴史を振り返っての罪の現実<2:10>。①神の愛の訴えかけに対して、半信半疑の応答<1:1~2>。②当然あるはずの神への敬愛の念、一体どこにあるのか<1:6>。③本来素晴らしいものであるはずの神への礼拝・ささげ物、こともあろうに余り物・クズ同然のものをささげて平然としている<1:11~13>。当然そこにさばき(のろい)が及ぶという宣言<1:14、2:1~2>。
2.来るべき「主の日」に関する預言と招きのメッセージ<3~4章>。「見よ。わたしはわたしの使者を遣わす。」<3:1>。この預言は<4:5~6>に重なる。即ち、「わたしの使者(エリヤ)」は、表向きはバプテスマのヨハネだが焦点は主イエス・キリストのことである。では、そこにつながる旧約最後の命令、<4:4>「あなたがたは、‥‥ モーセの律法を記憶せよ」に注目したい。それにしても、ユダヤ人の記憶力はずば抜けている。が、たとえ12歳までにモーセの律法を暗記できても、律法を完全に実行することは誰もできない。故に、すべての人はのろいの下にある。しかし、神はその律法ののろいから贖い出して下さる道を用意してくださった。モーセの律法は、キリストの十字架による愛の律法によって完全に成就されたのである。故に、この旧約最後の命令は、単にモーセの律法を記憶するのではなく、律法の意味(そこに秘められている神の愛の本質)を心に深く留めよということなのである。
by ybible63
| 2018-07-31 15:28
| ★礼拝説教要約