9月3日説教要旨 |
「神様の御前に留まる」(マタイ11章2~6節)
牧師 紺野 真和
今朝は、信仰者が誰でもはまるかもしれない、疑いの問題について見ていく。これまで教会は、疑いという事をタブーにしてきたところはないだろうか。そのために、いつの間にか教会から離れて行ってしまった人がいるかもしれない。
バプテスマのヨハネが投獄された時、彼は、弟子をイエス様のもとに遣わし「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と言った。ヨハネは、イエス様が救い主であるかどうか疑った。聖書に出てくる人の中で疑いを持ったのは彼だけではない。信仰の父アブラハムは、約束がなかなか実現して行かなかった時、神様の約束を疑った。また歴史上の有名な信仰者達も疑いに翻弄された。ジョンバンヤンは天路歴程という本を書いたが、その中で信仰者が疑いの城に閉じ込められて苦しむ姿を描いている。これはバンヤンの体験であったと考えられる。さて信仰者が疑いにはまり込むとどうなるか。苦しむ。なぜなら、信仰者は神様を土台に生きていて、疑うという事はその人生の土台が揺らぐという事だからである。バプテスマのヨハネは、これまでの人生をイエス様が救い主であると伝えることに全精力を挙げて来た。その彼がイエス様が本当に救い主であるかどうかわからなくなったのである。苦しんだであろう。疑いにはまり込んだ信仰者はどうしたらよいのだろうか。バプテスマのヨハネは率直にイエス様にあなたは救い主ですかと尋ねた。私たちも疑いにはまり込むとき率直に神様に尋ねる必要がある。その中で神様の時にイエス様は私たちに「あなたの疑いの罪もわたしは十字架で処理しました」と答えてくださる。疑いにはまり込んだ時、苦しいだろうが、神様の御前に留まり続けよう。