8月6日説教要旨 |
「祈り」(マルコ10章46節~52節)
牧師 紺野 真和
イエス様がエルサレムに向かうためにエリコの町を出ると、ひとりの物乞いの盲人バルテマイが施しを求めて道端に座っていた。バルテマイは自分の近くをイエス様が通られているのを知った。すると彼は「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫んだ。その時、大勢の人々は彼を黙らせようとたしなめた。普通の人なら大勢からたしなめられたなら、黙ってしまうであろう。しかし彼は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けました。このバルテマイから教えられることがある。それは執拗に祈ることの大切さである。私たちの祈りの生活はどうか。執拗にイエス様に求める祈りをしているだろうか。もし、そのような姿でないなら、私たちは心の内に何か問題を抱えているのだろう。まず私たちは自分が抱えている問題を知る必要がある。ある先生は「本当の教育とは、御言葉に触れた時、それを自分のものとするのを妨げている自分の内にある問題に気付くところから始まる」と語っている。私たちが執拗に祈るのを妨げている問題は、失望感かもしれない。恐らく誰しもが祈りに対する失望感を持っているのではないだろうか。しかし、神様は私たちに失望感を与える方であろうか。その失望感は、私たちが祈り続けることをせず、途中で勝手にやめてしまったために作られたものではないだろうか。神様はご自身の時にみわざを現してくださる方である。私たちは祈り続ける必要がある。しかし、神様は私たちの祈りにノーと言われることもある。パウロは肉体の弱さのために祈ったが、その祈りがきかれることはなかった。しかし「弱さを通して恵みがあらわされる」とその祈りの答えを頂いた。
神様からの答えを頂くまで執拗に祈る者となろう。