2016年 11月 19日
9月18日説教要約 |
「再会の希望」(ヨハネ11章17節~44節)
牧師 紺野 真和
人生において死別の悲しみほどつらいものはないだろう。私たちは愛する伴侶、親、子供、兄弟、友人を失う時、悲しみ、痛む。その悲しみ、痛みを私たちはどうしたらよいのだろうか。ある人は時間が解決して行くという。確かに時間は私たちの悲しみを和らげてくれる。しかし、いくら時間がたっても、愛する伴侶を失った人は、楽しそうな夫婦を見る時、寂しい思いになり、子供を失った親は、子ども連れの親を見る時悲しくなる。又ふとしたことで涙があふれて来ることもあるだろう。「死別の悲しみに向き合う」という本を読んだ。その本には死別の悲しみの癒しには、同じような境遇にあった人と分かち合うことの大切さが記されていた。さて、イエス様はどうされたであろうか。マルタ、マリヤ、ラザロ姉弟のラザロが病のために亡くなった。愛する弟ラザロを失って、姉のマルタとマリヤは深い悲しみに突き落とされた。その時、三人を愛しておられたイエス様が彼女たちに会われた。そして涙を流された。イエス様はマリヤの悲しみを共に悲しまれた。マリヤは共に涙してくださるイエス様を通して慰められたであろう。イエス様は私たちの悲しみにも涙を流してくださるお方である。そこに私たちの慰めがある。しかし、イエス様は、彼女たちにもっと素晴らしい慰めを与えられた。この後イエス様はラザロが埋葬された墓に行かれ「ラザロよ。出てきなさい。」と言われた。するとラザロは生き返った。この時、マルタ、マリヤ、ラザロは喜びのあまり歓喜の涙を流したであろう。このことは私たちに何を示しているのだろうか。それは、終わりの日に、主にあって召された者が、復活し、喜びの再会を果たすという事である。そこに真の慰めがある。その希望を握りしめて歩んでまいりましょう。
牧師 紺野 真和
人生において死別の悲しみほどつらいものはないだろう。私たちは愛する伴侶、親、子供、兄弟、友人を失う時、悲しみ、痛む。その悲しみ、痛みを私たちはどうしたらよいのだろうか。ある人は時間が解決して行くという。確かに時間は私たちの悲しみを和らげてくれる。しかし、いくら時間がたっても、愛する伴侶を失った人は、楽しそうな夫婦を見る時、寂しい思いになり、子供を失った親は、子ども連れの親を見る時悲しくなる。又ふとしたことで涙があふれて来ることもあるだろう。「死別の悲しみに向き合う」という本を読んだ。その本には死別の悲しみの癒しには、同じような境遇にあった人と分かち合うことの大切さが記されていた。さて、イエス様はどうされたであろうか。マルタ、マリヤ、ラザロ姉弟のラザロが病のために亡くなった。愛する弟ラザロを失って、姉のマルタとマリヤは深い悲しみに突き落とされた。その時、三人を愛しておられたイエス様が彼女たちに会われた。そして涙を流された。イエス様はマリヤの悲しみを共に悲しまれた。マリヤは共に涙してくださるイエス様を通して慰められたであろう。イエス様は私たちの悲しみにも涙を流してくださるお方である。そこに私たちの慰めがある。しかし、イエス様は、彼女たちにもっと素晴らしい慰めを与えられた。この後イエス様はラザロが埋葬された墓に行かれ「ラザロよ。出てきなさい。」と言われた。するとラザロは生き返った。この時、マルタ、マリヤ、ラザロは喜びのあまり歓喜の涙を流したであろう。このことは私たちに何を示しているのだろうか。それは、終わりの日に、主にあって召された者が、復活し、喜びの再会を果たすという事である。そこに真の慰めがある。その希望を握りしめて歩んでまいりましょう。
by ybible63
| 2016-11-19 11:13
| ★礼拝説教要約