2016年 09月 23日
8月28日説教要旨 |
「本当に必要なもの」(使徒3章1~10節)
牧師 紺野 真和
毎日、宮の「美しの門」と呼ばれる所に生まれつき足萎えの人が運ばれてきて施しを求めていた。彼の年齢は40歳を超えていた。恐らく子どものころから施しを求める生活をしていたのであろう。彼にとっての人生の喜びは、いくら施しをもらえるかということであっただろう。ペテロとヨハネが通りかかった。彼らは憐みをもってこの足萎えの人を見つめ、「私たちを見なさい」と言った。足萎えの人はいくら金銭をもらえるだろうかと期待したであろう。するとペテロは「金銀は私にはない」と言った。彼はがっかりしただろう。しかし、その後彼は、全く予想しなかった言葉をペテロから聞いた。「イエス・キリストの名によって歩きなさい。」これこそ彼が最も必要としていたことであった。そしてペテロは彼の手を取り立ち上がらせた。彼は立ち上がり、歩き、踊り神様を賛美した。
さて、私達にとって本当に必要なものは何か。今、私たちは何を求めているだろうか。お金が増え、安定した生活を送ること。良い学校、良い会社に入ること。また私たちは健康で長生きすることは求めているが、死後のことは求めていない。この世の中全体がこのようなものを求めているので、その空気の中にいる私たちもそのようなものを求めている。しかし、私達に本当に必要なものは、神様と出会い神様と共に歩む事、人々を愛する事、死後天国で歩めることである。なぜなら、そこにこそ本当の平安、幸せがあるからである。これらのものを与えてくださるために、神の御子イエス様は私たちの罪を背負って十字架に架かってくださった。私たちにとって本当に必要なものは何なのかを覚えよう。そしてそれらを与えてくださった主を信じよう。既に与えていただいた者は、喜びを持って主をほめたたえよう。
牧師 紺野 真和
毎日、宮の「美しの門」と呼ばれる所に生まれつき足萎えの人が運ばれてきて施しを求めていた。彼の年齢は40歳を超えていた。恐らく子どものころから施しを求める生活をしていたのであろう。彼にとっての人生の喜びは、いくら施しをもらえるかということであっただろう。ペテロとヨハネが通りかかった。彼らは憐みをもってこの足萎えの人を見つめ、「私たちを見なさい」と言った。足萎えの人はいくら金銭をもらえるだろうかと期待したであろう。するとペテロは「金銀は私にはない」と言った。彼はがっかりしただろう。しかし、その後彼は、全く予想しなかった言葉をペテロから聞いた。「イエス・キリストの名によって歩きなさい。」これこそ彼が最も必要としていたことであった。そしてペテロは彼の手を取り立ち上がらせた。彼は立ち上がり、歩き、踊り神様を賛美した。
さて、私達にとって本当に必要なものは何か。今、私たちは何を求めているだろうか。お金が増え、安定した生活を送ること。良い学校、良い会社に入ること。また私たちは健康で長生きすることは求めているが、死後のことは求めていない。この世の中全体がこのようなものを求めているので、その空気の中にいる私たちもそのようなものを求めている。しかし、私達に本当に必要なものは、神様と出会い神様と共に歩む事、人々を愛する事、死後天国で歩めることである。なぜなら、そこにこそ本当の平安、幸せがあるからである。これらのものを与えてくださるために、神の御子イエス様は私たちの罪を背負って十字架に架かってくださった。私たちにとって本当に必要なものは何なのかを覚えよう。そしてそれらを与えてくださった主を信じよう。既に与えていただいた者は、喜びを持って主をほめたたえよう。
by ybible63
| 2016-09-23 09:40
| ★礼拝説教要約