2016年 08月 26日
8月7日説教要約 |
神の聖さを映し出して生きる<レビ記19:1~10>
牧師 鳥居 完次
聖書は「愛の書」、どこを開いても「愛」が登場。その事実を<レビ記>から確かめたい。
<レビ記>全体を流れている主題は「神の聖さ」である。が、その根底に「神の愛」がある。
1.「神の聖さ」は100%「人の聖さ」と重なっていた。人は、「神の聖さ」を100%映し出して生きるものとして造られた。故に、神と人との交わりは本来実にきれいで完全であった。
2.罪によって「人の聖さ」の中に汚れが入った。しかし、それでも聖なる神の前に出る(近づく、交わる)ために、人はあの手この手を尽くすが、己の心の罪汚れを完全にきよめることはできない<エレミヤ17:9>。心の罪汚れを自浄する道は、まさに絶望的。それ故、
3.神は「神の聖さ」に与る道を神ご自身の方から用意してくださった。実は<レビ記>に律法が提示されているのは、「神の聖さ」を示すためであった。それにしても、<レビ記19章>に神の律法(戒め)が次々に登場する中、焦点は<18>に当てられている。即ち、すべての律法は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に要約されるのである<ローマ13:9~10>。その意味で、神はこの律法を成就する(いや、私たちを愛する)ために、神のひとり子イエス・キリストご自身の肉体といういけにえ(なだめの供え物)を通して、罪の完全なきよめの道を用意し、今やそれを実現された。ここにおいて、確かに「律法」はあくまで「影」であって、「本体(実物)」はキリストにあることがわかる<ヘブル10:1>。と同時に、「神の愛」と「神の聖さ」は合わさっていることがわかる。それ故、私たちひとり一人、主にあって「神の聖さ」(「神の愛」)を映し出して生きる者とさせていただきたい。
牧師 鳥居 完次
聖書は「愛の書」、どこを開いても「愛」が登場。その事実を<レビ記>から確かめたい。
<レビ記>全体を流れている主題は「神の聖さ」である。が、その根底に「神の愛」がある。
1.「神の聖さ」は100%「人の聖さ」と重なっていた。人は、「神の聖さ」を100%映し出して生きるものとして造られた。故に、神と人との交わりは本来実にきれいで完全であった。
2.罪によって「人の聖さ」の中に汚れが入った。しかし、それでも聖なる神の前に出る(近づく、交わる)ために、人はあの手この手を尽くすが、己の心の罪汚れを完全にきよめることはできない<エレミヤ17:9>。心の罪汚れを自浄する道は、まさに絶望的。それ故、
3.神は「神の聖さ」に与る道を神ご自身の方から用意してくださった。実は<レビ記>に律法が提示されているのは、「神の聖さ」を示すためであった。それにしても、<レビ記19章>に神の律法(戒め)が次々に登場する中、焦点は<18>に当てられている。即ち、すべての律法は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」に要約されるのである<ローマ13:9~10>。その意味で、神はこの律法を成就する(いや、私たちを愛する)ために、神のひとり子イエス・キリストご自身の肉体といういけにえ(なだめの供え物)を通して、罪の完全なきよめの道を用意し、今やそれを実現された。ここにおいて、確かに「律法」はあくまで「影」であって、「本体(実物)」はキリストにあることがわかる<ヘブル10:1>。と同時に、「神の愛」と「神の聖さ」は合わさっていることがわかる。それ故、私たちひとり一人、主にあって「神の聖さ」(「神の愛」)を映し出して生きる者とさせていただきたい。
by ybible63
| 2016-08-26 09:48
| ★礼拝説教要約