2016年 05月 03日
4月17日説教要約 |
「祝福の源」(エゼキエル40章1節~4節)
牧師 紺野 真和
みことばを通して示されている教会の姿をエゼキエルが見た幻を通して確認する。南ユダは新バビロニア帝国に滅ぼされ、その民は捕囚としてバビロンに連れて来られた。ユダヤ人はその地で母国の事を思い出し涙を流していた。その時三つの幻が与えられた。
1、神様が神殿に臨在される幻。エゼキエルは御使いを通して素晴らしい神殿の幻を示された。しかしその神殿には最も重要な事が欠けていた。以前、神様はイスラエルの偶像礼拝の罪の為に去られた。神殿の幻を見せられた時点でも、神様はそこに臨在しておられなかった。しかし後に神様は神殿に臨在された。最も重要な事とは神様が臨在されるという事である。エゼキエルは、神の臨在を通して、民が神様と親しく交わり、神様を心から礼拝する姿を思い浮かべたであろう。教会とは、心から神様と交わり礼拝するところである。
2、民が一つとなる幻。エゼキエルはイスラエルの地に12部族が住む幻を見た。その時正方形の町の幻を見た。その町の門には12部族の名前が記されていた。この時エゼキエルはイスラエルの民が一つ家族となって住んでいることを覚えたであろう。教会とは子供からお年寄りまですべての人々が親しく交わり、家族のようにその存在を喜び合うところである。
3、祝福の源となる幻。エゼキエルは神殿から水が溢れだし川になり、その川の両岸には果樹が育ち、その川の水が死海に入ると、死の湖が魚の生息するいのちの湖になる幻を見た。
私たちは命の水を通して生きた者となった。今度その私たちが人々に祝福もたらす者である。その祝福の一つは救いである。他の祝福もある。それは生活全般に渡り、人々に喜びと平安をもたらすものである。教会は人々の祝福の源なるところである。
牧師 紺野 真和
みことばを通して示されている教会の姿をエゼキエルが見た幻を通して確認する。南ユダは新バビロニア帝国に滅ぼされ、その民は捕囚としてバビロンに連れて来られた。ユダヤ人はその地で母国の事を思い出し涙を流していた。その時三つの幻が与えられた。
1、神様が神殿に臨在される幻。エゼキエルは御使いを通して素晴らしい神殿の幻を示された。しかしその神殿には最も重要な事が欠けていた。以前、神様はイスラエルの偶像礼拝の罪の為に去られた。神殿の幻を見せられた時点でも、神様はそこに臨在しておられなかった。しかし後に神様は神殿に臨在された。最も重要な事とは神様が臨在されるという事である。エゼキエルは、神の臨在を通して、民が神様と親しく交わり、神様を心から礼拝する姿を思い浮かべたであろう。教会とは、心から神様と交わり礼拝するところである。
2、民が一つとなる幻。エゼキエルはイスラエルの地に12部族が住む幻を見た。その時正方形の町の幻を見た。その町の門には12部族の名前が記されていた。この時エゼキエルはイスラエルの民が一つ家族となって住んでいることを覚えたであろう。教会とは子供からお年寄りまですべての人々が親しく交わり、家族のようにその存在を喜び合うところである。
3、祝福の源となる幻。エゼキエルは神殿から水が溢れだし川になり、その川の両岸には果樹が育ち、その川の水が死海に入ると、死の湖が魚の生息するいのちの湖になる幻を見た。
私たちは命の水を通して生きた者となった。今度その私たちが人々に祝福もたらす者である。その祝福の一つは救いである。他の祝福もある。それは生活全般に渡り、人々に喜びと平安をもたらすものである。教会は人々の祝福の源なるところである。
by ybible63
| 2016-05-03 10:16
| ★礼拝説教要約