2016年 02月 05日
1月24日説教要約 |
「主の心」(マルコ1章40節~42節)
牧師 紺野 真和
イエス様が山上の説教を語り終え人々がイエス様に従っていた時、全身ツァラアトに冒された人がイエス様の許にやって来た。当時、ツァラアトは残酷な病であった。この病に侵された人は、肉体的、霊的、精神的な三重の苦しみを背負わされた。体にかゆみ痛みがあった。当時ツァラアトは神様の裁きと考えられ、神様に見捨てられた者とみなされた。ツァラアトの病の人は、家族や友人と離れ、町の外の洞穴などで生活しなければならなかった。この人がイエス様の御許に来た時、人々は一斉に彼から離れたが、イエス様は彼をあわれんだ。このあわれみという言葉は共感ということである。イエス様は彼の痛み、苦しみ、悲しみを受け止められ、そして共に苦しまれたのである。その後イエス様は彼に触った。この人はイエス様が患部を触られたことを通して、自分のこれまでの苦しみに共感していただいたことを知り、心に癒しを体験したことだろう。イエス様がこの人をあわれまれたように、神様は私たち一人一人の苦しみに共感してくださり、私たちの心は癒しを体験する。そして神様は今度私たちが他の人をあわれむ者(共感する者)となるように促している。私たちは自分の体験したことであれば共感しやすい。しかし体験したことのないことは、相手の話をよく聞いて、想像力をもって相手の状況を受け止める必要がある。もし簡単に人の話を聞くだけで、相手を自分の土俵に載せて「こうだろう。」「ああだろう。」と判断するなら、薄っぺらな共感になり相手に伝わらない。そして下手をすると批評や批判になってしまう。共感するためには、相手の話しをよく聞き、相手の土俵に自分が載り(相手の身になり)、相手の心を受け止める必要がある。その時相手の心に主にある癒しが与えられる。
牧師 紺野 真和
イエス様が山上の説教を語り終え人々がイエス様に従っていた時、全身ツァラアトに冒された人がイエス様の許にやって来た。当時、ツァラアトは残酷な病であった。この病に侵された人は、肉体的、霊的、精神的な三重の苦しみを背負わされた。体にかゆみ痛みがあった。当時ツァラアトは神様の裁きと考えられ、神様に見捨てられた者とみなされた。ツァラアトの病の人は、家族や友人と離れ、町の外の洞穴などで生活しなければならなかった。この人がイエス様の御許に来た時、人々は一斉に彼から離れたが、イエス様は彼をあわれんだ。このあわれみという言葉は共感ということである。イエス様は彼の痛み、苦しみ、悲しみを受け止められ、そして共に苦しまれたのである。その後イエス様は彼に触った。この人はイエス様が患部を触られたことを通して、自分のこれまでの苦しみに共感していただいたことを知り、心に癒しを体験したことだろう。イエス様がこの人をあわれまれたように、神様は私たち一人一人の苦しみに共感してくださり、私たちの心は癒しを体験する。そして神様は今度私たちが他の人をあわれむ者(共感する者)となるように促している。私たちは自分の体験したことであれば共感しやすい。しかし体験したことのないことは、相手の話をよく聞いて、想像力をもって相手の状況を受け止める必要がある。もし簡単に人の話を聞くだけで、相手を自分の土俵に載せて「こうだろう。」「ああだろう。」と判断するなら、薄っぺらな共感になり相手に伝わらない。そして下手をすると批評や批判になってしまう。共感するためには、相手の話しをよく聞き、相手の土俵に自分が載り(相手の身になり)、相手の心を受け止める必要がある。その時相手の心に主にある癒しが与えられる。
by ybible63
| 2016-02-05 09:32
| ★礼拝説教要約