2015年 08月 18日
8月9日説教要約 |
争いのない井戸はどこから<創世記26:17~33>
牧師 鳥居 完次
井戸を掘ると邪魔され掘ると邪魔され、それでも争いのない井戸を掘り続けた「井戸掘りイサク」の出来事(<創26章>に記されている)を通して、主のみこころを探ってみたい。
1.自分の方から積極的に平和を築く行動をすべきである。自分が被害者か加害者かが問題ではなく、自分の方から積極的に争いのない井戸を何度でも掘り続けたイサクのように、平和を築く努力をする。これこそが主なる神ご自身のみこころである。さて、そうするとき、
2.主ご自身の方から確かに平和を与えてくださる(くださった)ことが分る<22>。ところで、イサクはアブラハムとサラとの間に生まれた約束の子である。しかし、神はアブラハムに、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じた。それに従順に従ったイサクがほふられる直前、神はイサクの代わりに雄羊を備えてくださった<創22章>。実は、この身代わりの雄羊こそ主イエス・キリストである。その意味で、イサクが掘り当てた水は、まさに平和の君としてこの世に来られた神のひとり子主イエス・キリストによってもたらされた水(いのちの水、永遠のいのちへの水)が先取りされていると言える<ヨハネ4:14>。そうしてみると、イサクの下に「私どもは水を見つけました」<32>と報告のあった「水」こそ、私たちにとっては主イエス・キリストの十字架と復活の福音(良き知らせ)によってもたらされた「いのちの水」、汲めども汲めども尽きることのない「永遠のいのちへの水」そのものであることが分る。真の平和を築くことの難しさを覚える混迷の時代だからこそ、「井戸掘りイサク」のように、自分の方から積極的に平和をつくる努力をし続けていきたい。
牧師 鳥居 完次
井戸を掘ると邪魔され掘ると邪魔され、それでも争いのない井戸を掘り続けた「井戸掘りイサク」の出来事(<創26章>に記されている)を通して、主のみこころを探ってみたい。
1.自分の方から積極的に平和を築く行動をすべきである。自分が被害者か加害者かが問題ではなく、自分の方から積極的に争いのない井戸を何度でも掘り続けたイサクのように、平和を築く努力をする。これこそが主なる神ご自身のみこころである。さて、そうするとき、
2.主ご自身の方から確かに平和を与えてくださる(くださった)ことが分る<22>。ところで、イサクはアブラハムとサラとの間に生まれた約束の子である。しかし、神はアブラハムに、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じた。それに従順に従ったイサクがほふられる直前、神はイサクの代わりに雄羊を備えてくださった<創22章>。実は、この身代わりの雄羊こそ主イエス・キリストである。その意味で、イサクが掘り当てた水は、まさに平和の君としてこの世に来られた神のひとり子主イエス・キリストによってもたらされた水(いのちの水、永遠のいのちへの水)が先取りされていると言える<ヨハネ4:14>。そうしてみると、イサクの下に「私どもは水を見つけました」<32>と報告のあった「水」こそ、私たちにとっては主イエス・キリストの十字架と復活の福音(良き知らせ)によってもたらされた「いのちの水」、汲めども汲めども尽きることのない「永遠のいのちへの水」そのものであることが分る。真の平和を築くことの難しさを覚える混迷の時代だからこそ、「井戸掘りイサク」のように、自分の方から積極的に平和をつくる努力をし続けていきたい。
by ybible63
| 2015-08-18 14:57
| ★礼拝説教要約