2015年 06月 24日
6月14日説教要約 |
「子供を愛するイエス様」(マルコ10:13~16)
牧師 紺野 真和
親が子供の祝福をイエス様に祈ってもらおうとやって来た。親に抱かれてイエス様の許に行く子供、また一人でイエス様の許に走って行こうとする子供たちがいたであろう。その時、弟子たちは叱った。その理由はいろいろ考えられる。イエス様が疲れておられるので休んでいただこうと思ったのかもしれない。またエルサレムに向かっているので邪魔されたくなかったのかもしれない。弟子たちがなぜ怒ったのかは分からないが、分かることがある。それは彼らの心に「子供なんか」という思い、子供を軽く見る思いがあったことである。そのような弟子たちにイエス様は憤りをあらわにされた。イエス様が激しく憤られたのは、この他宮きよめくらいか。私たちは大切にしているものを傷つけられる時怒る。イエス様の憤りから、イエス様がどれほど子どもたちを大切にしていたかが分かる。またイエス様は子供たちを招き、一人一人を抱き、頭に手を載せて祝福を祈られた。当時子どもの祝福を祈る時は頭に手を置くだけであった。しかしイエス様は子供たちを優しく抱きかかえられた。このお姿からもイエス様がどれほど子供たちを愛しておられたかが伝わって来る。
私たちはイエス様が愛されている子供たちをどのように育てていけば良いのか。イエス様は全ての人に「わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためである」(ヨハネ10章10節)と言われた。私たちは、子供たちがイエス様の愛を豊かに知って行くために労して行く必要がある。子供たちが、イエス様の愛を豊かに知って行く時、彼らは豊かな人生を送って行くことができる。イエス様の愛は、教会が子供たち一人一人に愛を持って具体的に関わることを通して、またイエス様の愛を伝えていく時に伝わって行く。
牧師 紺野 真和
親が子供の祝福をイエス様に祈ってもらおうとやって来た。親に抱かれてイエス様の許に行く子供、また一人でイエス様の許に走って行こうとする子供たちがいたであろう。その時、弟子たちは叱った。その理由はいろいろ考えられる。イエス様が疲れておられるので休んでいただこうと思ったのかもしれない。またエルサレムに向かっているので邪魔されたくなかったのかもしれない。弟子たちがなぜ怒ったのかは分からないが、分かることがある。それは彼らの心に「子供なんか」という思い、子供を軽く見る思いがあったことである。そのような弟子たちにイエス様は憤りをあらわにされた。イエス様が激しく憤られたのは、この他宮きよめくらいか。私たちは大切にしているものを傷つけられる時怒る。イエス様の憤りから、イエス様がどれほど子どもたちを大切にしていたかが分かる。またイエス様は子供たちを招き、一人一人を抱き、頭に手を載せて祝福を祈られた。当時子どもの祝福を祈る時は頭に手を置くだけであった。しかしイエス様は子供たちを優しく抱きかかえられた。このお姿からもイエス様がどれほど子供たちを愛しておられたかが伝わって来る。
私たちはイエス様が愛されている子供たちをどのように育てていけば良いのか。イエス様は全ての人に「わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためである」(ヨハネ10章10節)と言われた。私たちは、子供たちがイエス様の愛を豊かに知って行くために労して行く必要がある。子供たちが、イエス様の愛を豊かに知って行く時、彼らは豊かな人生を送って行くことができる。イエス様の愛は、教会が子供たち一人一人に愛を持って具体的に関わることを通して、またイエス様の愛を伝えていく時に伝わって行く。
by ybible63
| 2015-06-24 09:56
| ★礼拝説教要約