2015年 04月 09日
3月29日説教要約 |
十字架の原因はねたみ<マタイ27:11~26>
牧師 鳥居 完次
ローマ総督ピラトは、十字架へと追いやられて行く主イエスを取り調べた結果、それは「ねたみ」によると結論した。聖書に記されている「神はねたむ神である」と、どう関係するか。
1.神はねたむ神である。確かに、<出34:14><申4:24><ヨシュア24:19>他にある。しかし、これは私たちが普通使う「ねたむ」ではなく、神ご自身の所有する栄光と被造物に対する主権とを、他の偽りの神々に与えることをよしとされない(嫌う、憎む)と言う意味の「ねたむ」である。これは、神の聖(きよさ)・義(ただしさ)からして当然であって、故に「ねたみ」とは、純粋な意味では本来神だけにある神ご自身の性質ということができる。
2.罪とは、ねたむ神に逆らったこと。罪とは、本来神の側にあったものを、己の側に引き寄せてしまったところにある。言い換えると、罪とは、本来神の側にあった純粋な「ねたみ」を人間の側(人間関係)に引き寄せて(ゆがめて)しまったということである。その意味で、人類の歴史は極端な言い方をすれば、このゆがめられた「ねたみ」の歴史である。
3.ゆがめられた「ねたみ」によってキリストは十字架にかかった。何よりも主イエス・キリストを十字架に追いやった原因は「ねたみ」(ゆがめられたねたみ)である<18>。キリストはこのゆがめられた「ねたみ」で代表される私たちの罪を赦すために、まさに「ねたみ」によって十字架に追いやられ、その罪を負って死んでくださった<Ⅰペテロ2:24>。故に、キリストの十字架によって「ねたみ」の歴史に終止符が打たれた。だから、十字架の「愛は人をねたまない(ゆがめられたねたみで人をねたまない)」のである<Ⅰコリント13:4>。
牧師 鳥居 完次
ローマ総督ピラトは、十字架へと追いやられて行く主イエスを取り調べた結果、それは「ねたみ」によると結論した。聖書に記されている「神はねたむ神である」と、どう関係するか。
1.神はねたむ神である。確かに、<出34:14><申4:24><ヨシュア24:19>他にある。しかし、これは私たちが普通使う「ねたむ」ではなく、神ご自身の所有する栄光と被造物に対する主権とを、他の偽りの神々に与えることをよしとされない(嫌う、憎む)と言う意味の「ねたむ」である。これは、神の聖(きよさ)・義(ただしさ)からして当然であって、故に「ねたみ」とは、純粋な意味では本来神だけにある神ご自身の性質ということができる。
2.罪とは、ねたむ神に逆らったこと。罪とは、本来神の側にあったものを、己の側に引き寄せてしまったところにある。言い換えると、罪とは、本来神の側にあった純粋な「ねたみ」を人間の側(人間関係)に引き寄せて(ゆがめて)しまったということである。その意味で、人類の歴史は極端な言い方をすれば、このゆがめられた「ねたみ」の歴史である。
3.ゆがめられた「ねたみ」によってキリストは十字架にかかった。何よりも主イエス・キリストを十字架に追いやった原因は「ねたみ」(ゆがめられたねたみ)である<18>。キリストはこのゆがめられた「ねたみ」で代表される私たちの罪を赦すために、まさに「ねたみ」によって十字架に追いやられ、その罪を負って死んでくださった<Ⅰペテロ2:24>。故に、キリストの十字架によって「ねたみ」の歴史に終止符が打たれた。だから、十字架の「愛は人をねたまない(ゆがめられたねたみで人をねたまない)」のである<Ⅰコリント13:4>。
by ybible63
| 2015-04-09 14:51
| ★礼拝説教要約