2014年 02月 12日
2月2日礼拝説教要約 |
「健全な信仰を育てよう」(詩篇139篇1~23節)
牧師 紺野真和
この詩篇で、最初作者は神様が自分の一挙手一投足そして自分の内面を知られる方であると告白する。そのことで彼は神様から逃げるようとするが、自分を造られた時の神様の愛と自分への神様の御思いが尊いことを覚え、神様の御前に「私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と告白する。ここにある道とは心と置き変えても良いであろう。傷のついた心とは、神様の御前に正しくない心、良くない心である。そしてとこしえの道とは真の喜びと平安の心である。作者は、自分の心をすべて知られる神様に、最終的に自分の心を良い心にしてくださいと告白している。この詩篇を読む時に、最後に、神様の信仰者を良い心へと導きたいという御思いと、信仰者の良い心に造り変えて欲しいという願いがようやく一致したように見える。
さて私達はどのようなプロセスを経てキリストに似た者に変えられていくのだろうか。第一に自分の傷のついた心に気がつくことである。私達は自分の傷のついた心に気がついているようで気がついていない。あるいは自分自身で変えられなければならないと強く願うほどには傷の深さに気がついていないということもある。私達はまず自分の傷について気がつく必要がある。神様は、みことばを通して、人の言葉を通して、試練をとおしてそのことに気がつかせてくださる。第二に傷のついた心に具体的にアプローチしていくことである。どのようにすれば傷のついた心が整えられていくのか。祈りの内に考え、神様に示されたことを実行していくことである。その過程で何度も失敗をするだろうが、失敗してもあきらめないで取り組む必要がある。そのプロセスの中で、私たちは時間をかけて造り変えられて行く。
牧師 紺野真和
この詩篇で、最初作者は神様が自分の一挙手一投足そして自分の内面を知られる方であると告白する。そのことで彼は神様から逃げるようとするが、自分を造られた時の神様の愛と自分への神様の御思いが尊いことを覚え、神様の御前に「私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と告白する。ここにある道とは心と置き変えても良いであろう。傷のついた心とは、神様の御前に正しくない心、良くない心である。そしてとこしえの道とは真の喜びと平安の心である。作者は、自分の心をすべて知られる神様に、最終的に自分の心を良い心にしてくださいと告白している。この詩篇を読む時に、最後に、神様の信仰者を良い心へと導きたいという御思いと、信仰者の良い心に造り変えて欲しいという願いがようやく一致したように見える。
さて私達はどのようなプロセスを経てキリストに似た者に変えられていくのだろうか。第一に自分の傷のついた心に気がつくことである。私達は自分の傷のついた心に気がついているようで気がついていない。あるいは自分自身で変えられなければならないと強く願うほどには傷の深さに気がついていないということもある。私達はまず自分の傷について気がつく必要がある。神様は、みことばを通して、人の言葉を通して、試練をとおしてそのことに気がつかせてくださる。第二に傷のついた心に具体的にアプローチしていくことである。どのようにすれば傷のついた心が整えられていくのか。祈りの内に考え、神様に示されたことを実行していくことである。その過程で何度も失敗をするだろうが、失敗してもあきらめないで取り組む必要がある。そのプロセスの中で、私たちは時間をかけて造り変えられて行く。
by ybible63
| 2014-02-12 09:25
| ★礼拝説教要約