2013年 10月 01日
9月29日説教要約 |
「死からの解放」(マルコ5章21~24、35~43節)
牧師 紺野真和
会堂管理者の娘が死の床にあった。その時娘の父親はイエス様の周りに大勢人がいたにも関わらず、娘を助けたい一心で、イエス様の許にやって来てひれ伏し、娘の癒しを願った。イエス様は彼の願いを受け止められ彼の家に向かった。その途中、会堂管理者の家から人がやって来て「あなたのお嬢さんはなくなりました」と語られた。彼は心臓が止まる思いだったであろう。そして深い悲しみに襲われ、娘の名前を叫んだことであろう。その時、イエス様は聖書には記されていないが、彼の悲しみに共感されたであろう。他の箇所に、イエス様が一人息子をなくし、悲しみのどん底に突き落とされている母親を見て、内臓が揺り動かされるような切なる憐れみの心をもたれた事が記されている。この時も一人娘を失った父親の悲しみに心から共感され、寄り添ったであろう。しかしイエス様は彼に共感されただけではなかった。悲しみ絶望の中にいる父親に「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われた。そして娘の遺体のある部屋に入られると「タリタ、クミ(少女よ。あなたに言う起きなさい。)」と言われた。すると少女は生き返り、起き上がり、そして何と歩き始めた。娘の家族はどんなに喜んだであろう。しかし、イエス様はもっとすばらしいことをされるお方である。少女は息を吹き返したがそれは蘇生であり、またいつの日か死を迎えた。イエス様は、死後、もう二度と死ぬことのない体に蘇らせて、天国で愛する者と再会し、主をほめたたえ、永遠に歩む道を開いてくださった。本来、私たちは心に罪を持っているために死後裁かれ、滅びる者であったが、イエス様が私たちの罪を全て背負って十字架に架かり死に、三日目に蘇ってくださったことにより、死んでも生きる道を用意された。希望を持って歩みましょう。
牧師 紺野真和
会堂管理者の娘が死の床にあった。その時娘の父親はイエス様の周りに大勢人がいたにも関わらず、娘を助けたい一心で、イエス様の許にやって来てひれ伏し、娘の癒しを願った。イエス様は彼の願いを受け止められ彼の家に向かった。その途中、会堂管理者の家から人がやって来て「あなたのお嬢さんはなくなりました」と語られた。彼は心臓が止まる思いだったであろう。そして深い悲しみに襲われ、娘の名前を叫んだことであろう。その時、イエス様は聖書には記されていないが、彼の悲しみに共感されたであろう。他の箇所に、イエス様が一人息子をなくし、悲しみのどん底に突き落とされている母親を見て、内臓が揺り動かされるような切なる憐れみの心をもたれた事が記されている。この時も一人娘を失った父親の悲しみに心から共感され、寄り添ったであろう。しかしイエス様は彼に共感されただけではなかった。悲しみ絶望の中にいる父親に「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われた。そして娘の遺体のある部屋に入られると「タリタ、クミ(少女よ。あなたに言う起きなさい。)」と言われた。すると少女は生き返り、起き上がり、そして何と歩き始めた。娘の家族はどんなに喜んだであろう。しかし、イエス様はもっとすばらしいことをされるお方である。少女は息を吹き返したがそれは蘇生であり、またいつの日か死を迎えた。イエス様は、死後、もう二度と死ぬことのない体に蘇らせて、天国で愛する者と再会し、主をほめたたえ、永遠に歩む道を開いてくださった。本来、私たちは心に罪を持っているために死後裁かれ、滅びる者であったが、イエス様が私たちの罪を全て背負って十字架に架かり死に、三日目に蘇ってくださったことにより、死んでも生きる道を用意された。希望を持って歩みましょう。
by ybible63
| 2013-10-01 08:36
| ★礼拝説教要約