2013年 09月 10日
9月1日礼拝説教要約 |
「心を分かち合う交わり」(創世記3章1~7節)
牧師 紺野真和
アダムとエバは、蛇に誘惑されて善悪の知識の実を食べた。その結果、彼らは神様の意図されない見方で自分を見るようになり、自分達の腰の覆いを作り体を隠した。体を隠したということは、心も隠したということを象徴している。この時以来、人は、プライド、恐れ、劣等感、個人主義の故に自分自身を隠すようになった。しかしこれは健全な信仰者の姿ではない。なぜなら聖書に出てくる信仰者は自分の心(弱さ、悲しみ、闇など)を他の信仰者と分かち合っている。パウロは「私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」と言った。またイエス様は罪はないので罪については語らなかったが、ゲッセマネの園でペテロとヤコブとヨハネに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われた。これまでメッセージで見てきたダビデもエステルもそうであった。なぜ心を分かち合う必要があるのか。
第一に親密な交わりを持つためである。教会は神の家族である。家族とはそれぞれの役割を果たし合うだけのところでなく、親密な交わりを持つところである。
第二に励まし合うためである。表面的な交わりをしている者同士の励ましの言葉は、どんなにすばらしい言葉を話しても、大きな励ましを与える事ができないが、心からの交わりをしている者同士の言葉は、一言でも大きな励ましを与える。(Ⅰテサロニケ5章11節)
第三に成長し合うためである。神様は、私達を教会を通して、信仰の友を通して成長させようとされている。そして私たちが成長しなければならない所は、表面的なところではなく、心の深い所である。そこを分かち合い、互いに祈りの内にサポートし合う必要がある。
信仰の友と心(弱さ、痛み、悲しみ、闇)を分かち合う交わりを築いてまいりましょう。
牧師 紺野真和
アダムとエバは、蛇に誘惑されて善悪の知識の実を食べた。その結果、彼らは神様の意図されない見方で自分を見るようになり、自分達の腰の覆いを作り体を隠した。体を隠したということは、心も隠したということを象徴している。この時以来、人は、プライド、恐れ、劣等感、個人主義の故に自分自身を隠すようになった。しかしこれは健全な信仰者の姿ではない。なぜなら聖書に出てくる信仰者は自分の心(弱さ、悲しみ、闇など)を他の信仰者と分かち合っている。パウロは「私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」と言った。またイエス様は罪はないので罪については語らなかったが、ゲッセマネの園でペテロとヤコブとヨハネに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言われた。これまでメッセージで見てきたダビデもエステルもそうであった。なぜ心を分かち合う必要があるのか。
第一に親密な交わりを持つためである。教会は神の家族である。家族とはそれぞれの役割を果たし合うだけのところでなく、親密な交わりを持つところである。
第二に励まし合うためである。表面的な交わりをしている者同士の励ましの言葉は、どんなにすばらしい言葉を話しても、大きな励ましを与える事ができないが、心からの交わりをしている者同士の言葉は、一言でも大きな励ましを与える。(Ⅰテサロニケ5章11節)
第三に成長し合うためである。神様は、私達を教会を通して、信仰の友を通して成長させようとされている。そして私たちが成長しなければならない所は、表面的なところではなく、心の深い所である。そこを分かち合い、互いに祈りの内にサポートし合う必要がある。
信仰の友と心(弱さ、痛み、悲しみ、闇)を分かち合う交わりを築いてまいりましょう。
by ybible63
| 2013-09-10 08:28
| ★礼拝説教要約