2013年 04月 03日
3月24日礼拝説教 |
見えますか、主の十字架が<詩69:13~36>
牧師 鳥居 完次
この詩篇は、神の前に敬虔に生きようとする者の苦しみからの祈りである。実は詩篇作者(ダビデ)にとって、究極の苦しみは自分の内にひそむ罪であり、そこからの解放であった。
1.ダビデ自身の側からの祈りによる解決の道<13~28>。祈りに向かう姿勢は信仰者として当然であろう。ところが、彼はこの祈りの中で自分の現実に引き戻され「そしりが心を打ち砕く」<20>のを知る。つまり、相手からの攻撃が内面的、霊的な面に及んできたのである。ここに至り、相手に対する怒りがついに爆発してしまう<22~28>。もちろん、これが神の解決の道でないことは、本人が百も承知のこと。だから、本当に苦しく辛いのである。
2.主ご自身から差し出される救いの道<29~36>。この段階に来ると人間的には越えられない壁があることがわかる。しかし、神ご自身がその壁を突き破ってくださるなら、そこに本当の解決(希望)が提示されている。極め付きは「心の貧しい人たちは、見て、喜べ。」<32>である。何が見えるのか。それこそ「主の十字架」である。その意味で、この詩篇は驚くほど主イエス・キリストに当てはまる。主は「ゆえなく憎まれ」<4>、何度も出てくる「そしり」「侮辱」「恥」は、主イエスにこそ浴びせられたもの。しかも、主だけは罪人の私たちを、<22~28>のことばをもって苦々しく訴えることのできる唯一の方。にも拘らず、主は十字架の上で私たちの罪をその身に負われたのである。故に、ここに映し出されている主の十字架によって、罪の完全な赦し(聖め)が用意されていることがわかる。その事実をますます見せられることによって、主の十字架の救いを心から喜ぶ(続ける)者でありたい。
牧師 鳥居 完次
この詩篇は、神の前に敬虔に生きようとする者の苦しみからの祈りである。実は詩篇作者(ダビデ)にとって、究極の苦しみは自分の内にひそむ罪であり、そこからの解放であった。
1.ダビデ自身の側からの祈りによる解決の道<13~28>。祈りに向かう姿勢は信仰者として当然であろう。ところが、彼はこの祈りの中で自分の現実に引き戻され「そしりが心を打ち砕く」<20>のを知る。つまり、相手からの攻撃が内面的、霊的な面に及んできたのである。ここに至り、相手に対する怒りがついに爆発してしまう<22~28>。もちろん、これが神の解決の道でないことは、本人が百も承知のこと。だから、本当に苦しく辛いのである。
2.主ご自身から差し出される救いの道<29~36>。この段階に来ると人間的には越えられない壁があることがわかる。しかし、神ご自身がその壁を突き破ってくださるなら、そこに本当の解決(希望)が提示されている。極め付きは「心の貧しい人たちは、見て、喜べ。」<32>である。何が見えるのか。それこそ「主の十字架」である。その意味で、この詩篇は驚くほど主イエス・キリストに当てはまる。主は「ゆえなく憎まれ」<4>、何度も出てくる「そしり」「侮辱」「恥」は、主イエスにこそ浴びせられたもの。しかも、主だけは罪人の私たちを、<22~28>のことばをもって苦々しく訴えることのできる唯一の方。にも拘らず、主は十字架の上で私たちの罪をその身に負われたのである。故に、ここに映し出されている主の十字架によって、罪の完全な赦し(聖め)が用意されていることがわかる。その事実をますます見せられることによって、主の十字架の救いを心から喜ぶ(続ける)者でありたい。
by ybible63
| 2013-04-03 17:38
| ★礼拝説教要約