2013年 03月 12日
3月3日礼拝説教 |
「神の愛」(ローマ8章31~39節)
牧師 紺野真和
この箇所には二つの主要な問いがある。一つは、だれがクリスチャンを罪に定めることができるのか、もう一つは、神様の愛から引き離すものはあるかである。
1、私たちを罪に定めようとする者として、実際に悪魔、良心、他の人の三つが存在する。悪魔は神様の御前で「あの者はこのような罪を犯している」と言う。良心は自分自身に「このような罪を心に持っているお前は救われているはずがない」と語る。自分で自分を罪に定めようとする。他の人は「それでもクリスチャンですか」と言って罪に定める。しかし、神様はなんと言っているか。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(33)正しい神様がどのようして罪人を義と認めてくださることができるのか。イエス様の十字架の死によってである。十字架によって、私たちの罪がイエス様に転嫁され、イエス様の義が私たちに転嫁されたのである(義認)。イエス様の義の故に、どんなに心に罪があったとしても、私たちは罪に定められることなく、義に定められる。
2、パウロは「私たちをキリストの愛から引き離すものはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか・・」(35)と語る。しかしそれらの苦しみが自分を神様の愛から引き離せないというのはパウロの体験であった。彼は苦しみの中でも神様からの愛に満たされていた。この事は素晴らしい事である。パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37)と語る。神様の愛がパウロをどのような状況でも支え、勝利者として生きる者とさせたのである。私達も様々な苦しみに会うが、神様に注がれている愛を受け止め、勝利者として人生を歩める。
牧師 紺野真和
この箇所には二つの主要な問いがある。一つは、だれがクリスチャンを罪に定めることができるのか、もう一つは、神様の愛から引き離すものはあるかである。
1、私たちを罪に定めようとする者として、実際に悪魔、良心、他の人の三つが存在する。悪魔は神様の御前で「あの者はこのような罪を犯している」と言う。良心は自分自身に「このような罪を心に持っているお前は救われているはずがない」と語る。自分で自分を罪に定めようとする。他の人は「それでもクリスチャンですか」と言って罪に定める。しかし、神様はなんと言っているか。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(33)正しい神様がどのようして罪人を義と認めてくださることができるのか。イエス様の十字架の死によってである。十字架によって、私たちの罪がイエス様に転嫁され、イエス様の義が私たちに転嫁されたのである(義認)。イエス様の義の故に、どんなに心に罪があったとしても、私たちは罪に定められることなく、義に定められる。
2、パウロは「私たちをキリストの愛から引き離すものはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか・・」(35)と語る。しかしそれらの苦しみが自分を神様の愛から引き離せないというのはパウロの体験であった。彼は苦しみの中でも神様からの愛に満たされていた。この事は素晴らしい事である。パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(37)と語る。神様の愛がパウロをどのような状況でも支え、勝利者として生きる者とさせたのである。私達も様々な苦しみに会うが、神様に注がれている愛を受け止め、勝利者として人生を歩める。
by ybible63
| 2013-03-12 08:38
| ★礼拝説教要約