2013年 01月 22日
1月13日礼拝説教 |
今約束されている神の安息
牧師 鳥居 完次 <ヘブル4:1~13>
「神の安息(日)」とは、「安心して息を吸う(日)」と説明した人がいた。なかなかうがった説明かもしれない。では、「神の安息」について聖書はどのような説明をしているのか。
1.「神の安息」は創造のみわざが完了して以来、現在まで存続している<3>。それ故、(1)最初の人アダムとエバが置かれたエデンの園には、本来「神の安息」が存在していたし、当然彼らはその「神の安息」を享受できていたはずである。しかし、(2)人は自ら犯した罪ゆえにその「神の安息」を失った。しかしながら、(3)神は、罪人の私たちを「神の安息」の地に入らせたいと願われ、救いの道を用意された。旧約のヨシュアに代り、主イエスが真の救い主キリストとして遣わされ、十字架と復活によって確かに私たちを「神の安息」に導き入れて下さる道が与えられた。ここに、「神の安息」に関する今日的意味がある。
2.私たちは罪によって「神の安息」を失ってしまったが、今やだれでも主イエス・キリストを信じる信仰によって、その「神の安息」を持つ(味わう)ことができる。とは言え、この世にあっては患難がある。それ故、現実に私たちが吸う息は「神の平安の息」ではなく、「悩み、悲しみの息」と言えるかもしれない。しかし、がっかりする必要はない。信仰によって私たちの内にある(住んでいる)「神のことば」は、生きておられる<12>。受肉された神のことば(主イエス・キリスト)が生きて働き、私たちの内に入った「痛み、苦しみの息」を「神の安息(平安)の息」につくり変えて吐き出させてくださるからである。それが主イエス・キリストが私たちに残してくれた「神の安息(平安)」である<ヨハネ14:27>。
牧師 鳥居 完次 <ヘブル4:1~13>
「神の安息(日)」とは、「安心して息を吸う(日)」と説明した人がいた。なかなかうがった説明かもしれない。では、「神の安息」について聖書はどのような説明をしているのか。
1.「神の安息」は創造のみわざが完了して以来、現在まで存続している<3>。それ故、(1)最初の人アダムとエバが置かれたエデンの園には、本来「神の安息」が存在していたし、当然彼らはその「神の安息」を享受できていたはずである。しかし、(2)人は自ら犯した罪ゆえにその「神の安息」を失った。しかしながら、(3)神は、罪人の私たちを「神の安息」の地に入らせたいと願われ、救いの道を用意された。旧約のヨシュアに代り、主イエスが真の救い主キリストとして遣わされ、十字架と復活によって確かに私たちを「神の安息」に導き入れて下さる道が与えられた。ここに、「神の安息」に関する今日的意味がある。
2.私たちは罪によって「神の安息」を失ってしまったが、今やだれでも主イエス・キリストを信じる信仰によって、その「神の安息」を持つ(味わう)ことができる。とは言え、この世にあっては患難がある。それ故、現実に私たちが吸う息は「神の平安の息」ではなく、「悩み、悲しみの息」と言えるかもしれない。しかし、がっかりする必要はない。信仰によって私たちの内にある(住んでいる)「神のことば」は、生きておられる<12>。受肉された神のことば(主イエス・キリスト)が生きて働き、私たちの内に入った「痛み、苦しみの息」を「神の安息(平安)の息」につくり変えて吐き出させてくださるからである。それが主イエス・キリストが私たちに残してくれた「神の安息(平安)」である<ヨハネ14:27>。
by ybible63
| 2013-01-22 10:56
| ★礼拝説教要約