2012年 12月 01日
11月18日説教要約 |
~先主日礼拝メッセージ~
「主はぶどうの木」(ヨハネ15章1~11節)
牧師 紺野真和
イエス様は十字架に架かる前夜、弟子達そして全てのクリスチャンの成長(多くの実を結ぶこと)を願い、ぶどうの木の譬え話しをされた。クリスチャンはどうすれば多くの実を結ぶと言われているのか。この箇所にはキーワードがある。それは「とどまる」という言葉である。クリスチャンはイエス様にとどまる時に実を結ぶ。イエス様にとどまるとは具体的にどのようなことか。それはイエス様のみことば、戒めを心に留め生きることである。人は戒めを守るというと律法主義的なように思われるかもしれないが、しかし私たちは強制されて戒めに従うのではない。イエス様はいろいろな命令を力を込めて語られたが、圧力をかけることはなかった。クリスチャンは従わざる負えないから従うのではない。ただイエス様の十字架の愛への応答として従うのである。私たちが幹であるイエス様から愛を受け止める時、みことばに生きることができる。そのように生きるなら実を結んでいく。
クリスチャンが結ぶ実とは何か。実は旧約聖書でユダヤ人をぶどうに譬えている箇所が数箇所ある。「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ5章2節)等。神様は旧約時代のユダヤ人に良いぶどうの実を結んでほしいと願ったが、彼らが結んだ実は酸っぱい実、質の悪い実、悪臭の放つ実であった。具体的には、神様への信仰のない心、罪の悔い改めのない心、汚れた心、隣人愛のない心、肉欲に支配された心である。イエス様はクリスチャン達に彼らのようではなく、よい実(信仰心の豊かな心、悔い改めやすい心、愛に満ちた心)を結ぼうとしておられる。
「主はぶどうの木」(ヨハネ15章1~11節)
牧師 紺野真和
イエス様は十字架に架かる前夜、弟子達そして全てのクリスチャンの成長(多くの実を結ぶこと)を願い、ぶどうの木の譬え話しをされた。クリスチャンはどうすれば多くの実を結ぶと言われているのか。この箇所にはキーワードがある。それは「とどまる」という言葉である。クリスチャンはイエス様にとどまる時に実を結ぶ。イエス様にとどまるとは具体的にどのようなことか。それはイエス様のみことば、戒めを心に留め生きることである。人は戒めを守るというと律法主義的なように思われるかもしれないが、しかし私たちは強制されて戒めに従うのではない。イエス様はいろいろな命令を力を込めて語られたが、圧力をかけることはなかった。クリスチャンは従わざる負えないから従うのではない。ただイエス様の十字架の愛への応答として従うのである。私たちが幹であるイエス様から愛を受け止める時、みことばに生きることができる。そのように生きるなら実を結んでいく。
クリスチャンが結ぶ実とは何か。実は旧約聖書でユダヤ人をぶどうに譬えている箇所が数箇所ある。「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」(イザヤ5章2節)等。神様は旧約時代のユダヤ人に良いぶどうの実を結んでほしいと願ったが、彼らが結んだ実は酸っぱい実、質の悪い実、悪臭の放つ実であった。具体的には、神様への信仰のない心、罪の悔い改めのない心、汚れた心、隣人愛のない心、肉欲に支配された心である。イエス様はクリスチャン達に彼らのようではなく、よい実(信仰心の豊かな心、悔い改めやすい心、愛に満ちた心)を結ぼうとしておられる。
by ybible63
| 2012-12-01 09:04
| ★礼拝説教要約